卒業文集

1.

今日も諸事情で過去の作品を。これは文部科学省で研修を受けた国立大学法人の有志の人たちが作った研修記録「卒業文集」の表紙です。この絵自体は昨年の2月ごろに描いたのですが、文集自体は今年の3月で完成しました。かなりかなり初期のころの作品のため、当時受けていた中村佑介(バンドASIAN KANG-FU GENERATION ののCDのイラストレーター)の影響をもろに感じさせる作品になってます。

当時文科省が携わっている作品を調べあげ、いろんな要素を詰め込みました。

 

2.

今週もこのサイトに来てくれて有難うございました。またつぎ日曜日の夜(深夜になるかも)に更新したいと思います。来週もよろしくね。


無人島のヤギ

中学校の時、慶良間諸島の一つの安室島という無人島に、4日ほど泊まったことがある。
何かの団体の一員として(なんの集団だったか忘れた)遊びに行ったんだけど、そこまでは近くの島からボートで渡って上陸した。島の周囲はサンゴのリーフで囲まれ、場所によっては砂浜もあった。干潮時にリーフに遊びに行くと、潮が引いて露出したリーフの水たまりに、1メートルもあるウツボや、40センチほどもあるブダイ、タコなどが取り残されていて、それをモリで仕留めて食べた。

島には他にヒメハブという毒蛇が住んでいて、ヤギもいると聞いた。僕はなぜか、野生のヤギをどうしても見たくなった。

ところが、島を一周しても、キャンプ地近くの森を散策しても、結局ヤギは見つからなかった。島に来て3日目になり、野生のヤギがこの小さい島にいる事自体が次第に怪しく感じられるようになった。

島にはちょうど真ん中に小高い丘がある。3日めの午後、その頂上に登ろうということになった。高さは100メートルもいかなかった気がする。でも、形的にも存在感的にも、この島の中では十分「山」だった。もちろん頂上までの道はない。僕らは、お生い茂るアダンの枝をのこぎりで切りながら、頂上を目指した。アダンの枝はグニャグニャと絡み合っていて、それを切るのになかなか時間がかかる。葉にもノコギリのようなギザギザがついていて、急ぐと危険だ。

上り始めて3時間ほどで、ようやくアダンの群生を抜け、大きな岩をよじ登り、頂上に到達した。山頂からは、東シナ海に沈む夕日と、島を取り囲む慶良間の島々がポツポツと見えた。東の空には巨大な入道雲がそびえており、夕日に照らされて真っ赤になっていた。

そのとき、僕は足元を見て驚いた。そこには、茶色い土のようなコロコロとした糞が。

ヤギは確かに島にいた。お釈迦様の手のひらを飛んでいた気分になった。


ブーゲンビリアの生垣

1.

今日は僕が超好きな映画ですが、頑張ったのに登場人物がまっったく似なかったので、映画のタイトルは教えません(うそです、『ナビィの恋』です)

本土ではあまり知名度は無いかもだけど、沖縄では公開当時県内のタイタニックの興行収入を超えるヒットを記録した映画です。ちなみに元首相の小渕恵三もこの映画の大ファンで、監督と対談したこともあるのだとか。監督は中江裕司。

この映画の何がいいかって、物語もあるようでないような感じだし、唐突に沖縄の民謡を劇中の登場人物が歌い出したりして、初めて見た人にはついていきづらいところもあるだろうけれど、映画全編の空気が物凄く良くて、何度も何度も見てしまう。

今日この絵を描くためにネットの画像を漁っていたら、映画のラストのシーンの画像を見つけて悶絶死しそうになった。また見たいな〜。

2.

南国を描いていて思うのは、南の島は日差しが強いので明暗のコントラストが強い。ここに、「明」と「暗」の魅力がある。日差しの強い楽園。でも、その葉の陰には、過去の戦争で死んだ人の骨が埋まる。「明るいところこそ影も濃い」とは言うけれど、その極端な振れ幅に南国というテーマの可能性があるんでないかと最近感じてます。

かなり個人的な文章だな。。


少年の世界

小学生の時は、世界はどこまでも広くて、いつか世界中を旅したいと思っていた。

家の近所の公園の滑り台から見える海を見て、その向うにはなにがあるのかと、テレビや教科書で知ってるくせにアホみたいにぼんやり思っていた。

砂漠にはなにがある?洞窟にはなにがある?密林の中には?古代の遺跡の中には?この世のありとあらゆる全てをこの目で見たいと思っていた。

でも、大人になるに従って、世界は、小学生の時に想像していたよりは、少々退屈な場所だと理解するようになる。世界は人工衛星でくまなく調べられ、誰にも見つかっていない島など無いし、前人未到の森など殆ど無い。時々見つかる新種の動物といえば小さい虫ぐらいだし、不思議なものもあらかた発見されてしまった。そしてそれらは、パソコンのキーボードをちょこっと叩けば、画面に出てくるようになる。

今や僕も四六時中狭い部屋で一人、机に向かって絵を描いている始末。世界もなにもあったもんじゃない。

それでも、Facebookで中学の友人の息子の写真を見た時、忘れかけていた世界は広いと信じている自分を思い出して感動してしまった。もうだいぶ昔の話だけど、僕にも確かにその時期があった。

首里城の城壁に立って世界を見渡す息子の背中を見ながら、友人は父親として何を思ったのだろうと想像しながら描いた。子供のいない僕にはその領域はわからない。
僕だったら息子になんというだろうか。
僕は結局世界を旅してないから、息子に本当の意味で「世界は広い」とは伝えられない。でも「お前が行って見てこい」とは言える。きっとそういうと思う。

 


夏のサンバ

1.
シャンシャンシャン!夏が来た!ゾイ!

 

2.

この絵は一昨年前に暑中見舞として描いたものです。まだ公開していなかったのでアップ。
右が兄、左が弟という設定です。

兄の口癖は「どうしようどうしよう」

弟の口癖は「もうだめだから諦めろ」

です。

 

3.

たとえば2つ並んでいる何かを説明する文章を書く時、「右は〇〇、左は〇〇」というふうに右から説明しますか?それとも左から説明しますか?

僕は語感的に「右」から説明したくなるタイプ。でもいざそれを文章にした時、「右」から説明すると、文の並び的には左側に「右」という漢字が来るので物凄く気持ち悪い。ならば「左」から説明すればいいんだろうけど、音読すると語感的に気持ち悪い。これは日本語の欠点の一つだと勝手に思ってる。

上の兄弟の説明の場合、絵の中では兄は右側にいるのに、文の並び的には弟の左側に書かれているので、ややこしい。