全然考えがまとまっているわけじゃないんだけれども。
例えば、子供が将来パイロットになったとします。
そのとき、普通は『子供はパイロットになる道を切り開いていった』
ってことになるんだと思う。
けど、『子供はパイロットになることがあらかじめ決まっていて、それに向けて運命の道を邁進していった結果』とも受け取れるよね。
今まで通ってきた道(現在の地点)は自分で切り開いてきたのか、
はじめから決められていたことなのか、
誰にもわからない。
ここらへんは科学じゃないんで反証不可だし、解釈の問題だ。
それでここ数ヶ月、立て続けに「運命を信じた方が自由に生きられる」という考え方に出くわして、感化されてきている。
たとえば、こんな言葉に出くわした。
漫画『バガボンド』で、ちゃんとした台詞は忘れたけど、お坊さんの台詞にこんなのがあった。
「運命は決まっている。だからこそ自由」
古武術研究科の甲野さんは、著書でこんな事を言っていた。
「人生というのは紙だと思います。表面には予定がびっしり書かれており、裏面は真っ白なのです」
留学生が教えてくれたけど、アラビアにはこんな意味合いの言葉があるらしい。
「明日は神様が準備してくれている。だから、悩まずに今を生きろ」
僕は神様は全然信じてないし、宗教にも入ってない。
「自然の仕組みや流れで将来の運命が決まっています」って言われても抵抗を感じる。
「あなたは30歳で死にます」なんて言われたら絶対嫌だし、信じない。
でも、なぜか、「今の状況になるのは昔から決まっていましたよ」って言われると、「ああ、そうなのかも」と妙に納得してしまう。
例えば、未来ってのは無限通りあるとして、
そのうち一つを選んでどんどん先に進んでいくとする(これは実際にそうだと思う)。
でも振り返ればどっちみち一本の道になっているわけだし、
この道を選んだのは必然だったと思っても何の不都合もないわけだ。
何をやったって結局なるようになる。でも、何をやるかによって、その結果はまちまちだ。
それなのに、ある地点から過去を振り返ると、
一本の足跡が後ろに向かってずーっと延びていて、
例えば、あえて蛇行していたとしても、例えばジグザグに歩いていたとしても、
結局この辺の位置に立つことになっていたんだろうなって気になる。
ということは、どの道を歩いたって自由だってことになる。そう思う。
考えてみると、これは、未来の自分がある地点に立っていて、今の自分を振り返ることを想定している。
数年後の未来の自分が、『今この状態になるのは、決まっていたことだったんだ!』と考えていることを想像している。だから、
「どうせ将来そういう風に感じるのだから、今は何やったって良いや」
「自由だ」
と感じていることになるんだと思う。
ある意味へんな未来志向だよね。
この考え方は、まとめると、
『人の将来たどる運命を信じないくせに、いま、この地点に立っているのは運命だと信じる。』
ということになると思う。
すごい矛盾だよね、これ。でも、そんな気がするんだよなあ、今は。
コレから先、この矛盾を解決するようなアイディアが出てくるかもしれない。
出ないかもしれないけど。
もしかしたら、本当に運命は全て決まっているのかもしれない。
でも、「自分がこれから歩む道は全部決まっている」って信じる勇気を、僕は持ち合わせていない。
だから、コレぐらい軟弱な運命論の人生モデルの方が、
今の僕には合っている気がします。