もこさとさん

1.もこさとさん
大分前なんだけど、バイト先の某高齢者施設の職員と話していたときの話。
職員「君って、芸能人の誰かに似てるっていわれない?」
俺「え?もこみちですか」
職員「え・・・も・・もこみち・・・?」
これはまずかった。スベった上に彼女は完全に引いた顔をした。
あれから一年。僕は今でも『もこ里』さんと言われております。
2.コンタクトレンズ
今日いつものようにコンタクトレンズをはめようとしたら、レンズにヒゲが刺さっていた。
電動かみそりでジョリジョリ剃られた、細かいヒゲである。
なぜ食い込んだのか、わからない。
しかも、奥に食い込んでなかなか取れない。
ためしに、そのまま目にはめてみた。
すごく痛かった。
すごく、痛かった
3.カメラ
僕はクレイジー・ダイヤモンドを持っていないので、壊れたカメラを直すことは出来ません。
今、我が家にデジカメが3台あるのですが(一台はゆやまんからの借り物)、すべて液晶が割れております。特に、俺のキャノンのIXYなんかは画面が真っ白で何にも見えないので、撮ってもどう撮れたのかわかりません。
でも、『何枚でも撮れる使い捨てカメラ』って考えたら、こんな便利なものは無いと思います。ちゃんとファインダーがあるので、そこから覗けばいいんですよね。しかも、僕のファインダーを覗く顔は結構やばいので、天然のスマイルショットにもなりますし。
ようは考えようですよね(壊しすぎ)


横断歩道が嫌い

うちの研究室のある建物の都合上、どうしても駅前の横断歩道を使う機会が多くなるのだが、最近、その横断歩道が嫌いでしょうがない。
例えば信号が赤になっている時。横断歩道の向こう側に知り合いがいると、気まずい。手を振って挨拶をすれば良いだけの話だが、道路を隔てているので当然話は出来ないし、かといって見つめ合っているのもおかしい。
だから、結局ソッポを向くのだが、その後信号が青になって、すれ違うときがまた気まずい。こんな思いをするなら陸橋を渡った方がよっぽどましだと思っちゃう。
だいたい、通るために待たなきゃならないのも気に入らない。特に電車に送れそうで猛ダッシュしている時に信号に引っかかったりしたら、果てしなくイライラする。トイレを我慢しているときなんかは、もういろんな意味で爆発寸前だ
かといって、赤なのに車が通ってなくて、いつでも渡れるような状態になっている時も困る。仮に、青になるのを待っている人がいたら、渡りたくても渡れない。これは、俺にモラルを問うているのか?と思っちゃう。
こんなときに思い切って渡っちゃうと、待っている人に対して罪悪感がつきまとう。ところが、こちらが待っている時に誰かが平気な顔をして渡り始めると、「こっちは我慢して待っているのに!」ってまたイライラする。


続:無意識の『手入れ』

ひと言で無意識といっても、その範囲は膨大で、どれぐらいカバーしているのか僕にはよくわからない。
そこで、ここでは『行動に関する無意識』と、『センス、思考回路、知恵などに関する無意識』をピックアップして、それぞれの『手入れ』について考えてみた。
1.行動に関する無意識について
僕は、このブログの『怪文書ON THE WEB』時代の日記からもわかる通り、もの凄くドジである。行動の隅々に神経が行き渡っていない。つまり、行動の隅に『意識』が行き渡っていない。起きる出来事は、ある意味無意識的な行動から起因されるものが大半だ。
そのような中で、前回みたいに「無意識は自然だ」と言い切ってしまうと、僕の中でスッと落ち着く物がある。
「『自然』だからしょうがないか」と諦観を持つことが出来るようになった。それまでは、何か忘れ物をしたり、無くしたりすると自己嫌悪に陥ったが、この考えを持つようになって、「まったく、俺の無意識ってやつは!」と客観的に自分の行動を分析出来るようになった。
自分の思い通りにならない自然は、うまく『手入れ』をして、飼いならせば良い。そこで、どんなふうにすれば『無意識』という自然を飼いならせるのか自分なりに考えてみた。
まずは基本。
それには、自分の無意識が一体どのような行動をとるのか、一つ一つ自覚していくことから始まると思う。例えば、何か考えことをしながら鍵をドアにかける時。鍵穴から抜いた鍵を、すぐ近くの棚の上に置くのか、それとも上着のポケットに入れるのか、または鞄に放り込むのか。
もし、無意識的に棚の上に置く癖があって、それが何か不都合を起こす場合。『鍵を棚に置く』ということを自覚すると、今後は、その無意識的にとった行動を『修正』して、鍵をポケットに入れる。それを繰り返せば、無意識に「鍵をポケットに入れるように」どんどん刷り込みをすることが出来る。次からは、何かを考えていても、無意識的に同じ行動が出来る。
これは、研究者が実験用のマウスを扱うような下等なスリ込みだが、マウスも『自然』。同じ扱いで十分なはずである。
『自覚』→『修正』→『無意識に刷り込み』
なんか、こう書いてしまえば当たり前な事実のような気もするが、これが全ての基本だと思う。もしこれが正しければ、なんにでも応用が利くはずである。
うまくいけば、考え方や、物の見方だって、どんどん変わっていくかもしれない(完全に変わることは無いにしても)。考え方だって、脳の中の行動なんだと思う。
今後は、自分の体をもって、これらを実験していくことになると思う。
2.センスや思考回路、知恵などについて
「暗記は寝る前の方が良い」
「学習には試行錯誤するべきだ」
「学習したことは2週間以内に復習した方が良い」
「頭の中には常に情報を流し込んどいて、頭の中で寝かせる」
「集中した方が集中しないよりもより頭に入る」
「覚える時は、手で書き、声に出し、反復せよ」
「毎日しっかりした睡眠時間をとろう」
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センスを磨く、思考回路を鍛える、知恵を身につける、などといったことについて、上記のようにいろんなコツが以前から言われているが、結局は脳みその『手入れ』のコツの事を言っているんだと思う。『脳ミソを手入れする』のは、『無意識を手入れ』するのと直結する。つまり無意識の『手入れ』なのだ。
これは、犬に芸を仕込むようなものだとおもう。あるいは、植物を育てることに似ているかもしれない。
例えば、高温多雨の気候に住む植物を、寒くて乾燥した部屋で育てたって、あんまり育たない。部屋の中をある気温に保って、適度に肥料をやり、適量の水を与える方が遥かに育つ。
脳みそも、それなりの良い条件の中で学習させた方が飲み込みが良いに決まっている。
だから、脳の性質を理解し、首尾よく『手入れ』していくことが、うまく勉強していくコツになってくる。
これも、結局は当たり前のことなんだけど、『成長しなきゃ』って考え方から『脳みそよ、俺が育ててやんぜ!』っていう視点に切り替わっているところが面白い。
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無意識を『自然』と捉えて、『手入れ』し、育てるものだと考えると、スゴく面白い物だと思う。無意識は『無』意識なだけに、自分ではよくわからない。だから、観察する。観察すると、あ、こいつにはこんなところがあるんだ、こんな側面があるんだ、と毎日発見がある。
そして、これはいけないと判断した時は、それをよく自覚し、修正する。そして、それは自分の成長として反映されてくるのだ。スゴく面白い。
むしろ、自分の無意識に対して、名前でも付けてみようか、とさえ思ったりする。『まさし』とか『田中さん』とか。それはさすがにアブないか。


無意識の『手入れ』

もう、「体は自然だ」論、「無意識を手入れする」論にハマりまくりです。
1.『自然』の定義
養老孟司の定義では、『意識が作らなかったもの』が『自然』なんだって。そして、それ以外は『人工』。
例えば、木を切って家を建てた時は、意識的に家を設計し、作り上げたので『人工』。ところが、時間が経ち、シロアリに柱を食われたり、カビが生えたり、苔が生えたりして、どんどんぼろぼろになっていく課程は、人間の意識が作用してないので『自然』。
で、この『自然』と『人工』の定義の話は、かなり長くなってしまうので、興味のある人は『いちばん大切なことー養老教授の環境論』(養老孟司著 集英社新書)、『スルメを見てイカがわかるか!』(養老孟司、茂木健一郎共著 角川oneテーマ21)を読んでください。目から鱗でっせ。
そこで、ここからは養老孟司の『自然』の定義を採用していきたいと思います。
2.人間は無意識だらけ
変わって無意識の話。まだ途中なんだけど、いま池谷裕二著の『進化しすぎる脳』(ブルーバックス)を読んでて、無茶苦茶ハマっています。今までの中で、特に感動したのは、人間は無意識だらけで、意識なんてほんとに氷山の一角でしかない、ということを、実感を持って知ったということ。
例えば、視覚。目の網膜から脳につながっている視神経はおよそ100万本なんだって。100万本ってめちゃ多いように聞こえるけど、よく考えると、それはカメラの100万画素と同じだということに気がつくはず。100万画素??
100万画素って、実は結構荒いよね。普通のデジタルカメラなんて、だいたい400万画素。100万画素ってその四分の一。そして、それを俺らが普段見ているような視野全体の大きさにまで拡大してしまったら、もう画面は荒くて見れたもんじゃないはず。ところが、現実にはよく見えている。
なんで、見えているのか?それは、脳が視界の画像を補完しているからなんだって。そのことは盲点の実験で簡単に確認出来ます(詳しくは本で。感動です)
更に言えば、実は網膜内の細胞の構成上、視界の周辺は色が全く感じられないはず。なのに実際にはそんなことはない。これも脳が勝手に色を補完しているんだって。
で、これらの脳の働きは、見ている人自身が『見えろ!!』って意識することでイメージを補完しているわけじゃない。うまり、意識的な脳の働きではない。
ここで、池谷さんのいう『意識』の最低条件はというと、次の通りである。
1.表現を選択できる・・・立とう、歩こうといった、自分の行動の選択が出来るということ。
2.ワーキングメモリー・・・短期記憶
3.可塑性・・・過去の体験によって、脳の状態が変わること。
正直2、3はイマイチ理解していないんだけど、注目は1。物事を判断したり、選択出来ることを意識とよんでいる。つまり、判断出来ない物は無意識の仲間なのだ。
ということは、この条件でいけば、普段「見ている」のは無意識的な行動ってことだ。本の中でもそう言い切っている。これってすごくない!?見ている行為でさえ、ほとんどが無意識ってことは、想像以上に無意識の力って行動の大半を占めてるんじゃないかとおもっちゃう。
考えてみれば、ペンをもって線を引くにしても、線を引こうって意識が働いてはいるものの、実際に引いている行為は無意識だったりすると思う。字を書く行為は殆ど無意識だ。いくらきれいに習字を書こうとしても、意識だけではかけない。そこに感覚だとか、そういう意識だけでは説明出来ない要素が入ってくる。それって無意識なんだろう。
習字を一年間書き続けたとき、最初の頃の字と今の字とでは全然違うはずだ。『ここを止めて、ここを払う』。字を書く上での知識はこれぐらいのはずなのに、書いた字のレベルは段違い。これはつまり知識(意識)とはちがう、このタイミングでこう筋肉を動かすといった無意識の部分でのレベルが上がったということだ。
同じことは仕事だとか、普段の生活や、人間性にだって言える。人間性を決めるのも、無意識の部分だと思う。ふるまいや仕草なんて特にそうだ。意識的にふるまうには限界がある。でも、そんなところにその人の魅力が潜んでいたりもする。ということは、無意識部分をいかに魅力的に発展させるかが、より良い人間性や生活に直結してくるとも言えなくない。
3.無意識は『自然』。だから、手入れが必要
1.で確認したように、『自然』の定義が『意識が作らなかったもの』なのであれば、無意識も『自然』、ということになる。これってスッゲー面白い考え方だと思うけどどう!?(僕のオリジナルじゃないけど)
もし、『無意識は自然だ!』と結論付けちゃうと、『もう自分の力ではどうにもならないっす』という方向で落ち着く。台風を人間の力でとめることなんて出来っこないし、『自然』を人間が征服しようとしても無理が生じる(多くの環境破壊はこの考え方で生じた)。
自然と人間がうまくやっていくには『手入れ』がいちばんだ。特に日本では昔から『手入れ』の思想が根付いてきた。日本が世界で第2位の経済大国なのにも関わらず、国土の70%が森林で覆われているのもこのためだ。日本人は林業という手法で、山をずっと手入れしてきたのだ(養老孟司曰く。)。
だから、無意識は僕の力じゃどうにもならないもんだ、と割り切っちゃって、どうやれば、よりこの『自然』と寄り添って(手入れして)生きていけるかと考えるとすごく面白い。
ほんとは、じゃあどうやって無意識を手入れするんだ、ってことを書きたかったんだけど、長くなったのでまたいつか。(でも実践出来なきゃ意味ないねー。)


基本の確認(いいタイトルが思いつかない)

1.
前々回の記事で書いたけど、人間は一種のシステムなんだそうだ。人間を構成する物質は常に入れ替わり、しばらくたてば、体中、骨から何まで全て入れ替わる。全くの別人になる。
じゃあ、今自分の体の部分の中で、もともと生まれもっている物はなんだろう?
その構成物質が常に入れ替わっているのなら、手も足ももともと生まれた時からもっていた物とはいえないかもしれない。脳だってそうだ。
遺伝子はどうだろうか?遺伝子は核酸から出来ているが、その核酸を構成する物質も入れ替わっているのだろうか?よくわからないが、遺伝子も体の一部である限り、絶えず入れ替わっているのかもしれない。
でも、おそらく遺伝子がもつ“情報”だけはあまり変わらないだろう。変わるのかもしれないが、何らかのダメージでも受けない限り、昨日と今日、去年と来年とでは大した変化はおきないと思う。もし、それぐらいの速さで変化するのであれば、人間はいとも容易く根本的に変わることが出来るようになるはずだ。
長身になりたければ、長身になるよう遺伝子を変えればよい。もっと落ち着きたければ、落ち着けるように遺伝子を変えればよい。
でも、それが出来ないから、自分を変えたい、自分を変えたい、と悩む。
2.
健康にいいものを食べ続ければ長生きできるとは必ずしも言い切れなくても、体に悪いものばっかり食べ続けると寿命が短くなる、というのは正しいと思う。
長寿の遺伝子というのがあるらしいが、どんなに遺伝子のもつ“情報”が『80年は生きる』と言い続けたとしても、その体を構成する物質が劣悪な物であると、悪い部品がどんどん体に組み込まれて、寿命が来る前にボロボロになってしまうとおもう。寿命があと50年あるから、今毒を飲んでも死なない、ということは無い。
根幹である遺伝情報は不変。でも、入り込んでくる部品(構成物質)で状況は変わる。
ほかにも環境や習慣といったいろいろな変数はあるが、それらを無視して肉体の構成物だけに注目しただけでも、肉体は色々な変化を起こすことが分かる。
3.
似たようなことが、精神にもいえると思う。なぜなら、精神は脳というシステムの産物だからだ。また、遺伝子が精神活動に影響を与えているということもある。性格は遺伝する。根本にある性格はなかなか変わらない。これは、遺伝子情報に書かれた肉体の設計図の振る舞いに似ていると思う。しかし、周囲の環境、学んできたことがらで、人格は形成される。
『遺伝子に書かれた根幹の情報→生来の性格』、『変化する部品→さまざまな体験(知恵)』と置き換えると、人間の性格形成や物の考え方が、
『遺伝子に書かれた根幹情報→生来の趣向性』、『変化する部品→現在興味を持っているもの』とすると、人生の生きがいが、説明出来ると思う。
物の考え方も生きがいも、肉体と同じように全て変わる物だと思う。食うだけだったらただ太ってしまい、筋トレしたら筋肉がムキムキになるように、生きがいや考え方も、情報を入れて、そしゃくの仕方次第で色々変化するんだと思う。
もちろん、それらの情報の他にも、環境の影響など別の変数も混じってくるからややこしい。
ただ、間違いなく言えるのは、変化は外部から入ってくる情報にゆだねられているってことだ。自分を変えるには、多くの情報(知恵、環境)を得なければいけない。どこかに閉じこもっていたら、ずーーーっと変わることは無い。(むしろ黴びる)
あー、結局は基本的なことだな。