昨日、夜11時頃。カッパを装着して稲毛駅に向かった。このときは前も見えないほどの雷雨で、頻繁に稲妻が走っていた。僕は始めのうちは普通に歩いていたが、やがて雷が怖くなって足がすくんできた。
それはまるで空襲の様だった。稲妻が光るとどこかに必ず落ちている。光とともに轟音がなる様は、遠くで爆撃が行われているかのようだった。次はここがその爆撃地になるかもしれない、そんな妄想の根が心の奥で急速に成長し、僕の心臓を恐怖で縛り上げていった。
実際、ここ数日全国で雷で死ぬ人が後を絶たなかった。その日も西日本で2人が心肺停止になっていた。これはずっと前の話だけど、サッカー場に雷が落ちて、選手が大勢死んだという話を聞いた事がある。また、雷が海に落ちて、サーファーが一気に数名死んだという話も聞いた事がある。雷にうたれると、まず死ぬのだ。それも一瞬で。こんな理不尽な死ってあるだろうか。
また、雷は基本的に高いところに落ちる傾向があるけど、必ずしもそうとは限らないらしい。確率の問題なのだそうだ。となると、雷鳴が轟いている空の下を歩くということは、常に死の宝くじを引いているようなものだ。外を歩いているだけで、常にそのくじを何度も引き続ける。そんな宝くじだ。外にいる時間が長ければ長いほど、引き当てる確率も高くなる。
とはいえ、先日亡くなった方々は、いずれも周りに高い物がなにもない場所で打たれたとのことだった。稲毛はその逆で、俺よりも高い建物はたくさんある。それどころか、避雷針だって林立していて、まず歩行者に落ちる事は無い。完璧ではなくても限りなく安全に近いはずだ。
でも僕はこわかった。そのくじを引いてしまうんではないかと思うと腰に力が入らなくて、結局歩けなくなってしまった。
僕はなんとか公園のあずまやまで歩いていって、そこで休んだ。外に轟く雷鳴。雨はその頃は大分止んでいた。
あずまやに坐って、雷鳴が遠ざかるのをじっと待つ。靴はぐっしょり濡れていた。僕はいつからこんなに臆病になったんだろう。世界は死で満ちあふれているのに。こんな雷よりも、車で死んでいる人の方がいっぱいいる。雷鳴でなくても、人間は生きているだけで死のくじ引きを引き続けなければならないのだ。なんでこんなにおびえているんだろう。この程度で。これでは世界を歩けない。
年を取るごとにどんどん小さくなっていくような気がする。僕も。僕の世界も。