アジ?

今日は11月にやる展示会のテーマについて、メンバーと西船橋の喫茶店で相談していたんだけど、5時間たっても話し合いが堂々巡りでなにも決まらず、ついに頭も働かなくなり、訳のわからないことに。そんな時、だれかがアジトって単語を出したんだけど、ヨットが「アジと」と解釈。

アジって魚の鯵?

頭の中をアジがおよぐ。


M or D

僕はよく無意識で行動する。だから行動が論理的でないことが多い。気がついたら行動をしていて、あとでなんでこんなことをしたのか解釈したりする。

小雨の日は、あまり傘をささない。理由はとくにない。でもあえて挙げてみる。

  • まず、僕は多少服が濡れても、あまり気にならない。
  • 傘をさすと、風がうざくて、つねに傘の向きに気を配らなきゃならない。
  • 小雨だと、傘をさしても 、パラパラとした心地よい音があまり鳴らないので損した気分になる。
  • 傘を持つと片手がふさがる。
  • 雨に濡れるのって、ちょっとかっこいい?なんて心のどこかで思っている。

正直どれも当てはまる気がするが、一番最初の「服が濡れても気にならない」って要因が、決定的だと思う。

多少の不便をあまり気にしないクセ。不具合を無意識的に受け入れているところがある。その不具合はだいたい自分の体への負担などだ。パソコンの動きが遅くなるなどなら我慢できなくなるけど、濡れる、歩く、重いものを持つなどの体への負担は、あまり気にならなかったりする(もちろん限度はあるけど)。マゾなのか?それとも鈍感?

小学校の時は、ランドセルに全教科を入れて通学していた。それは、全てカバンに放り込んでいたら忘れ物することはないだろう、という思考からきていたんだけど、おかげで毎日信じられないほど重い荷物を背負っていた。でも、それを自然に受け入れている自分がいた。
僕はめんどくさがりやで、なるべく楽したいと思っているんだけど、どの点で楽をしたいのか、その選択の基準がいつもおかしい。明日の準備をする手間よりも、重い荷物を持つという選択って、どうなんだろう。
だから、より便利なものや効率を考えるデザイナーは、僕には向いていないなーって思ってイラストレーターに転向したわけです。

なんでこんなこと書いているのかというと、今日、雨の新宿を、傘を持っているにもかかわらず、ささないで歩き続けていたことに、目的地に着いて初めて気がついたから。

恐るべきMorD。


蕭白ショック!!を千葉市美術館に見てきた

 

千葉市美術館に展示会『蕭白ショック!!曾我蕭白と今日の画家たち』を見てきた。
曾我蕭白(1730〜1781)は江戸時代に活躍した画家。異端の画家として、近年再び注目を集めているらしい。
ちなみに、蕭白は「しょうはく」と読むそうです。僕はそれを、会場の受付の人に聞いて初めて知りました。それまで、蕭白の存在を全く知らなかったのね。

僕は江戸時代の画家と言えば葛飾北斎とか伊藤若冲といったメジャーどころしかしらないし、水墨画の系譜とか全くわからない。
そのようなまったく無知に近い状態で見に行った。感想はというと、まず第一印象は「あ、水墨画だな」という感じ。よく本で見るような水墨画が並んでいて、特に山水図となると、ほかの作家と何が違うのかよくわからないぐらいだった。

ところが、絵をしばらく見ていると、他の水墨画を見ていたときは無かった、独特な迫力を感じるようになってきた。それは、画面全体にドカンと書き込まれた、大胆な構図の効果に由るのかもしれないけれど、それだけでは語れないような、絵全体から醸し出される異様な迫力があった。その迫力は一体どこからでているのだろう?
なんとなく、こう…絵がグロテスクなところ?

他の人が描く水墨画より、全体的に人物がグロイ気がする。動物とか、あるいは仙人とかも、造形が歪んでいたり、服の皺が異常に多かったり、目尻が垂れてたり、皮膚がしわくちゃだったりして、やっぱりグロイ。そして、そのグロさが異様な存在感を放っていた。

それで、家に帰ってwikipediaで調べてみた。やっぱり画題を醜悪に書いたりするのは蕭白の特徴だったようだ。

また、蕭白は、画題の解釈のしかたも独特だったらしい。
たとえば竹林の7賢。ふつうの画家であれば、竹林の中で7人の賢者が仲良く清談している様子を描くところを、蕭白は『竹林七賢屏風図』で舞台設定を冬に移し、しかも二人が五人の元を去る場面を描いている。どうしてこんな場面にしたんだろう?
また、虎と獅子を描いた『獅子虎屏風図』では、いつもなら勇ましく描かれるトラが、情けない顔に描かれていたりする。
蕭白はこんな感じで、昔の技法を使いつつも、画題を独自に解釈し、独特な描き方をしていたっぽい。

ただ、僕はその画題が普通ならどのように描かれているのか、また、画題となる中国の説話がどういうものなのか、そういったバックグラウンドを全く知らないので、蕭白の解釈が他の画家と比べてどう面白いのかよくわからなかった。

そんなこんなで調べていたら、気になる絵があった。それがコレ。

(右隻)

(左隻)

特に左隻の妖怪が女性から耳かきされている部分。これすごいな!なんか異様。奇妙な感じ。蕭白の画集の表紙にも使われているみたい。コレは『群仙屏風図』というらしい。でも、今日は展示されていなかった。なんだよそれ、こういうのが見たかったのに!

と、この記事を書きながら、だらだら調べていたら、なんとこれも展示されていたらしい。ええ?俺見た覚えないぞ?

ぼんやりしていたから気がつかなかったのかな?ショッ(ry

 

※投稿直前に分かったけど、今回の展示会は会期中に大幅に作品を入れ替えるらしく、 『群仙屏風図』は5月2日からだそうです。

 


保育園のトイレ

この間、高校の友人の結婚式が沖縄の名護市であったんだけど、披露宴の会場がなんと開園前の保育園だった。
そのため、会場の飾り付けや料理が手作り感に溢れ、とても素敵な結婚式だったんだけど、ひとつ保育園なゆえに困った問題が。
それがトイレ。保育園児の身長に合わせて便器が作られているため、小用の便器が低く、中腰になるか、便器から離れて狙いを定めないと、用を足せない。
さらにすごいのが大の便器。小さく低いのでまるでオマル。さらに壁が無い。丸見えだ。

人はどこから恥を理解してくるのだろうか。少なくとも保育園の年代にはそういう概念が無い。むしろうんこと言ったら大笑いする年頃。
でもさすがに、友達がうんこしているのを見て、大笑いした事はないなあ。


雨の中で花見で木登り

昨日泊まりにきた山内真と、午前中花見をした。今日は朝から雨。でも、小雨で葉っぱがパラパラ落ちて、それはそれでとってもきれいだった。僕らは西千葉公園のあずまやに坐って、厚めのピザを頬張って、香港や中国の話、友人らの話、今後の話をした。

途中、僕に仕事が入ったので1時間ちょっとで終わることにした。帰る間際、真がどうしてもさくらの木に登りたい、その様子をビデオで撮ってほしいと言い出した。上着を脱ぎ、海をめがけて走る子供のようにダッシュで木に飛びついたのだけど、雨で木の表面がすべるのか、足を豪快に踏み外し、ふがふがいいながら地面に着地した。なかなか登れない。他の木を試すも結果は同じ。それでついに「無理です」と敗北宣言を出し、アラサーの木登りはあっけなく終わった。

ところが、帰り道、まだ小さい、柳のように枝が垂れ下がったさくらを見つけ、これに登るから写真を撮ってと言い出した。

そして、ついに真は木に登った。それはあっけない勝利だった。地上からたった1mほどしかないところに登っての勝利。でも、それは勝利に違いなかった。

勝利の笑顔を振りまく真。僕は、満ちあふれた真の笑顔に向かって、何度もシャッターを切った。何度も。雨に打たれて。

平日昼間。二人とも30代まであと少し。