電車の中で萌え系の本を読む中年のおじさんを見ると、なんで切なくなるんだろ

昨日、電車の中で萌え系のライトノベルや、PSPでアニメを見ている中年のおじさんをみるとなんで悲しい気持ちになるんだろうかということを、ゆやまんと話し合った。
べつに差別で言ってるつもりはないけれど、でも普段アニメやライトノベルを見ない俺が、中年のおじさんが電車でそれを読んでいるのをみると、確かに切ない気分になる。

たとえば小中学生がそれを見ていても、べつに気にならないかもしれない。高校生や大学生も多分大丈夫。でも中年が電車の中で読んでると、切なく感じる。

じゃあ中年のおじさんは読むなと言ってるのかというとそういうわけじゃない。たとえば、ある中年が別の場所で別のことをやっているときに、「実はあのアニメ見ていて、オススメなんだよ」と言ってきた場合。このときはそんなに悲しいとも思わない。べつに読みたければ読めばいいと思う。だから読むこと自体は全然問題ない。ただ、電車の中で読んでるってのがすごく気になっちゃって切なくなる。たぶん、電車の中で読むということは、その人が萌えている姿を公にさらしても平気だということを意味しているからだ。

別に萌え系を否定しているわけじゃない。絵は、人が萌えるためにものすごい時間をかけて、絵師たちが一生懸命時間絵を描いているわけで、そのことはすごいと思うし、学ばなきゃいけない点がたくさんある。でも、電車の中でそれを見るってことは、その絵を見て「カワイイ」だとか「ドキドキ」している姿を人前に晒しているということだ。若い人がドキドキしてるのはまだわかるけど、中年のおじさんが萌えているを見るのは正直引いてしまう。

わざわざ電車の中でカワイイ絵を見てドキドキしている中年のおじさん。なぜこんなに目立つところで見てまで、ドキドキしたいのか考えずにはいられない。
電車の中で、ドキドキする姿を晒してまで萌え系を見たくなってしまう程、この人の生活の中に、萌え系が大きな割合を占めるんだろうか。

もし生活の大半を萌えが占めているならば、好きな子とずっと一緒にいたいという気持ちに通じるものがある気がする。それは叶わぬ恋に似ている。そして中年の叶わぬ恋は切ない。

結局、読んでる姿の向うに悲恋を見ているから切ないんじゃないのかって結論になった。だいぶずれてる気がするけど。


ぼんやり

今日はいろいろ調子が悪くて、頭が働かないので自宅でぼんやりしてた。でもゴールデンウィークだからいいかと思っている。
外に出ない日は、雨の音が心地よい。椅子に座って夜までぼんやり。

昨日はどこかで死亡事故があったらしいし、今日はスカイツリーに虹がかかったらしい。

どっかの川でピラニアが見つかったらしいし、水泳のダーレオーエンが死んだらしい。

ネットで世界が変わっている情報がどんどん流れているのに、頭が働かないのでなにもできない。部屋の中ではなにも関係ない。なにもない。

 

明日から仕事。いろいろありますように。

 

 

 

 


be joyful always

3月に行われた結婚式用に描いたウェルカムボードをアレンジして、那覇の病院に置かせて頂きました。それにしても、聖書に「be joyful always, pray continually, give thanks in all circumstances」という言葉があって、僕はクリスチャンじゃないけれど、本当にいい言葉だなと思うんすよ。いつも楽しんで、いつも祈り、いつも周りの環境に感謝しなさい。そうだよね。

※明日と明後日は都合によりブログはお休みです。火曜日に。


飛んで目に入る春の虫

今日公園を自転車で走っていたら、一瞬だけ視界が黒くかすみ、目に小さな虫が入った。びっくりして瞬きをしたら、それはまぶたに巻き込まれた。その瞬間、何かが潰れたような感触があり、酸が入ったようなじわっとした痛みがまぶたの裏に広がった。家に帰ってまぶたを捲ると、その虫は丸くなって死んでいた。

この虫は今日、まさか鳥に食べられるわけでもなく、人にはたかれる訳でもなく、自分より巨大な生物の目に巻き込まれて命を落とすなんて考えもしなかったに違いない。
おれ、こうやって死ぬのか、なんてあっけない死に方なんだ。まぶたと眼球に挟まれてすり潰される瞬間、走馬灯のように思い出が走る。
はじめて卵の殻から出てきた頃のこと、蛹になって引きこもりになっていたこと、引きこもりを抜け出して、始めて自分の羽で空を自由に飛んだ日のこと、巨大な虫に襲われ恐怖に打ちひしがれた日のこと、そして初めて綺麗な羽を持ったあの娘に出会った、あの日のこと。
その意識も、次の瞬きで一瞬ですり潰され、この世から永遠に消えてしまった。

丸まった死骸を指先に留めて見つめる。まぶたで命を刈り取ってしまった。蛇口をひねって水に流す。


ヴァンパイアのルール

最近スティーブンキングの『呪われた町』と、そのオマージュである小野不由美の『屍鬼』を読んでから、自分の中で吸血鬼、特にヴァンパイアがマイブーム。

『呪われた町』は、ジェルサレムズ・ロットというアメリカの小さな街の古い屋敷に何者かが引っ越してきて、徐々に街の人たちが吸血鬼になっていくという話。小野不由美の『屍鬼』は舞台を日本の外場村に変えてはいるものの、ほぼ同じストーリーだ。しかし、舞台となる国が変わることで信仰や生活文化が全く違ってくるので、ストーリーが同じでも受ける印象が全然違ってすごく面白い。

でも、この両者の比較の話はいろんなサイトでやられているから置いといて、僕はこのキングの呪われた町の中で、ヴァンパイアの扱い方(特徴とかルールとか)の説明がほとんどされていないことに驚いてしまった。みんな、ヴァンパイアのこと知ってるよね、って扱いだ。

もちろん僕も以前から吸血鬼のことは知っている。血を吸う化け物だろ?不老不死。十字架とニンニクが苦手。日光がダメで昼間は棺桶で寝る。心臓にくいを打たれると死ぬ。そして血を吸われた者も吸血鬼になる。

でも、たとえばヴァンパイアは家に侵入しようとする時、家の中の人に招待されないと入れないっていうのは知らなかった。また吸血鬼は鏡に映らないってことも初めて知った。
これらのルールは、キングの小説を読み進めるうちに知ったことだった。でも、小説の登場人物は、20世紀の現代社会(吸血鬼なんておとぎ話さ)が舞台なのにもかかわらず、みんなこのルールを知っていた。つまり、このルールは説明されるまでもない一般常識だということだ。そうなのかーこれも文化の違いかーと感心したが、その時はそれで終わった。

で、この間『ぼくのエリ 200歳の少女』というスウェーデンの吸血鬼映画を見た(オススメ!)。こっちは小さな子供のヴァンパイアが出てくるんだけど、この作品にも鏡に映らない、中の人の誘いがないと部屋に入れないなどのルールが適応されていた。しかもその友達である人間の子供まで、このルールを最初から知っていた。

おどろいた。このルールは世界規模で常識だったのか!アメリカと北欧で細かい設定まで同じってすごい!

これらのルールは19世紀の小説『ドラキュラ』で一気に広まって、それ以後あまり変わってないらしい。でも、僕は小説は読んだことないけど、フランシス・コッポラの映画版だとヴァンヘルシング教授は普通に最初からドラキュラの性質を知っていた。ということはルールはそれ以前からあったということだ。
一体いつからこのルールが存在するんだろう?

ヴァンパイアのルールは昔から受け継がれて、生き残ってきた。そしてこの21世紀でもうまく適応して、次々に新しいものがたりを生み出して行く。
一見幼稚な設定なのに、こんなに息長く続き、しかも世界規模に成長していることに、凄い壮大なものを感じる。ただの怪談から生まれたバケモノなのに、科学が比べ物にならないほど発展した現代社会でもしぶとく生き残っているところが本当にすごい。きっと人間の恐怖の感情の根源に触れるものがあるから、こんなに続くんだろう。

恐怖って本当に奥が深いな。取り敢えずジョニーデップの「ダーク・シャドウ」は絶対見る。