実話ナックルズにイラストが載りました

今日は微熱が下がらず集中力がなくて、さてなに書こうかと迷っていたところ、そういえば5月30日に出た実話ナックルズに載ったイラストを紹介してなかったと思い、掲載です。今回は日本で起きた大量殺人の絵を書きました。上は伝説の吉原100人切りのイラスト。

史実なのか誇張なのかはわからないんだけど、顔に醜いアザがあって虐げられた人生を送っていた商人、次郎左衛門が、ある日吉原で女性を知り、恋をする。でも花魁は次郎左衛門をお客としてしか見ておらず、交際を拒否したため、遂に大爆発し、通行人も含めて100人も斬り殺したという話です。

これは歌舞伎だとか映画化もされているらしいんだけど、やっぱりそういうのって映画の題材になりやすいのかな。秋葉原の事件が映画化されたりすると、正直気分が悪い。でも、切り裂きジャックとかゾディアック事件は見てみたい。事件と自分との距離って結構残酷ですね。

 

これは大正時代の愛知県で起きたもらい子殺人事件の絵です。三人の女性が、子供をあずかるかわりに養育費を受け取って、子供を次々に殺していったという。で、この事件、なんと15年間も発覚せず、その間に殺された子供の数はなんと200人以上にも登るらしい。こんな凶悪な殺人鬼が日本にいたのかと衝撃を受ける。中央の首を絞める女性の顔は、般若の面を参考に描いています。

 

これは戦後間もない頃に起きた寿産婦人科のもらい子殺しの事件。新宿で、警察官がミカン箱を運ぶ男に不審を抱き職質をしたところ、ミカン箱の中から子供の遺体が見つかる。どれも餓死が中心で、これも計200人近くが犠牲になったという。。

世の中怖い事件が多いね!もし書店で見かけたら、ぜひ手に取ってみて下さい。


紅型

1.
今週末の結婚式のためのウェルカムボードに紅型の柄を入れようと思って、ネットをいろいろ調べまくっているんだけど、とても楽しい。紅型って単純に伝統の染物としかおもって無かったんだけど、どうも今でも新しい模様が出来てきているらしく、まだまだ創造の余地があるんだなあと思った。今回はネットから拾ってきた画像で、特に綺麗だなあと持ったやつを模写してます。
僕は基本パソコンでしか絵を描いていないんだけど、機会があれば実際に染めてみたい。

2.
それにしても昨日から風邪を引いていて、作業がはかどらず焦り気味。面白いことに微熱でも体がだるいといつものような絵がかけない。絵って基本的に身体的な作業。からだの調子が良くないと、それが直接絵に反映されてくる。本人しかわからないかもしれないけど。今回それを感じている。


フルスイングおじさん

うちの近所の公園には、朝、変な人が多い。この間、早朝に公園を散歩していたら、エメラルドグリーンのシャツに、ものすごいビビッドな紫色のズボンをはいたおじさんが何度もゴルフクラブを素振りしていた。

僕は、遠くからこのおじさんの服装と持ち物を視認した時点で、おかしな人がいると分かったので、歩くスピードを落として観察することにした。

 

この中年はひとしきりゴルフのスイングをした後、おもむろにポケットから卓球の球を取り出し、地面においた。そう、卓球の球だ。ゴルフボールではなく。おじさんはゴルフクラブを振りかぶり、卓球の球をめがけて一気にフルスイングした。

ところが、卓球の球が軽すぎてゴルフクラブがぶつかる前に風で移動してしまうのか、うまくミートせず、変な方向にフワァッと飛んでいった。そして、これがまるでハエの飛行軌跡だったので思わず吹き出しそうになった。ある意味衝撃的だった。フワッと舞い上がり、草むらにポテっと落ちる。なんとも貧弱な軌跡だ。というか、フルスイングしてなんでそんなに弱々しい飛び方をするのか謎だった。むしろそれは、なんらかの特殊能力のように思えた。ものすごい衝撃を、貧弱な力に変える力だ。

するとおじいさんは、チッと舌打ちしてブツブツ言いながら、また別の卓球の球を取り出して地面に置き、思いっきりフルスイングした。それでも球は、フワァっと力のない軌道を描いて生け垣に落ちた。

じいさんはまたポケットから別の玉を取り出し、フルスイングした。そのたびに、おかしくて笑いを堪えるのが大変だった。

 

それで、ひとしきりうち終わり、汗が出まくったらしく、肩にかけていたタオルでひたすら額を拭いだす。そして、ゴルフクラブを肩に担ぎ、早歩きでかえっていった。卓球の玉は回収されず、草むらに放置されたままになっていた。打ちっぱなしかよ。

 

というわけで、卓球をしたい時たまがなかったら、うちの公園を探せば見つかるかもです。


無駄な比較で下手な凹み

なんかの雑誌で誰かが言っていてたんだけど、その人はアウトプット期間とインプット期間があって、ある一定期間はインプット、そして別の期間にはアウトプットだけをやるんだって。
それ読んでまさに俺やんけと衝撃。ある時期になると、もう本を読みたい欲求ばかりが湧き出てきて、そういう時期はとにかくなんでもいいからむさぼり読みたくなる。ちょうど今がそれで、絵を二の次にしたくなる(いやちゃんと描きますよ..)。

僕はそういう波があるので、今がインプット期間である以上、それを上手に利用して、吸収できるうちに吸収しておきたい。でも、毎回決まって、この時期におんなじ落とし穴に落ちてしまう。なにかのファンになってしまうということだ。

僕がそういう期間に突入すると、大抵なんらか作品だとか文章に出会ってファンになる。で、ファンになったら結構ヤバイ。四六時中そのことを考えだしちゃうのはもちろんのこと、その人の仕事と自分のやっていることを比較しだして、俺はだめだ〜と考えてしまう。

他人がやった凄いことに触れるのはいいんだけど、なぜかそこで自分を卑下してしまう。
アジカンのCDジャケットの絵を描いている中村佑介だとか、装画イラストの大御所である藤田新策の絵を見ると、凄いと思うと同時に、凹んでくる。でも、凹んだところで何になる。

しかも実際には、比較しようがない人に対しても同じ事がおきてしまう。
今日なんか、サッカーの長友佑都のことを考えていて、「なんて彼はすごいんだ。俺はだめだな〜」って考えて凹んでた。長友て。。お前は彼と何を比較しているんだ。。

でも、この後者の事例を見てみるとわかるけど、結局は他人を自分と比較して落ち込むことって、本当に愚かなことだよね。滑稽で逆に笑えてくる。それはそれでいいことだ。

ということで、今週も自分のできることを頑張りましょう。ここに来てくれた皆さんも、良い一週間になりますように。

 


言葉ってやっぱり大切

今日はかなりイタい話だけど。
僕はここ10年ぐらい、「考える」ってどういう事なのか見失っていた。周りから良く考えろといわれることがたびたびあったけど、そのたびに「考えるってなに?どうすればいいの?」と疑問に思っていた。
なぜか学校の勉強はなんとなくできた。何か問題が与えられた時にそれを解いたりするのは国立大に入れるぐらいまではやった。でも現実の答えの無い世界の中で、最適解を選び取って進んでいくための思考のあり方はよくわからなかった。これで良く大学院を卒業出来たもんだ。

結論からいうと、僕は言葉の力を舐めていた。言葉はある事柄の側面しか切り取らないと思っていた。ある感覚を言葉で表してしまうと、その豊かさを削ぎ取ってしまって、無味乾燥な記号しか残らない。だから、なるべく言語化しない方がいい、言葉ではなく感覚で思考するべきなんじゃないのかと思っていた。感覚で思考するって・・・。俺がいうのもなんだけど全然意味が分からない。

言葉で思考することを拒否しだした原因はいくつか思い当たる。
高校の終わりらへんで、受験勉強が出来ずに大分落ち込んでいた頃。このままじゃ全然駄目だ、もっと頭を良くしたい(単に努力が足りなかっただけなんだけど)。そんな状況の中で、書店で「すぐに頭が良くなる」系の本を見ると、手に取らずにはいられなかった。世の中を見渡すと、確かに異常なぐらい頭のいい人達がたくさんいる。この本を読めば、僕もそうなれるのかもしれないと思っていたのだ。で、そういう系の本に書いてあるのは、大抵「眠れる右脳の力を全開にすれば天才になれる!」という話。

一般の人達は、日頃言葉を良く使い、計算をする。つまり左脳ばっかり使っている。でも、イメージを司る右脳を使いこなせるようになれば、言葉ではなくイメージで処理できるようになり、すんごい天才になれる。普通に考えればかなりうさんくさい話だが、当時の僕には革新的な考え方に思えた。

そもそも、僕は国語が大嫌いだった。小説がなぜテストの問題になりうるのか全然理解出来なかった。現代文はムダに難しい言葉を使っていてチンプンカンプンだったし、もっとわかりやすく書けばいいんじゃないのかと思ってた。だから、この「右脳でモノを考えましょう」「言葉でなく、イメージでモノを捉えましょう」という教えは僕の中にすんなり入ってきた。そして、これこそが僕をオリジナル足らしめる秘訣なんじゃないのかとさえ思った。それは、世界の秘密を知ってしまったような気分だった。そして同時に、言葉を使って考える事を、遅く非効率なやり方だと考えるようになった。これが僕を10年間も縛り上げた。

数学でよくわからない数字にXという文字を当てはめるように、漠然とした事象に言葉を当てはめながら物ごとを整理していかないと、考えられるものも考えられない。国語という科目が重要なのはまさにその点だった。文章を読んで書かれている内容を論理的に理解する。また、自分の中の漠然とした考えを言葉にして整理し、纏める。物ごとを考える上でかかせないこの行為を鍛え上げるのが国語という科目だった。

現代文で使われている難しい言葉は、抽象的な問題を論理的に考えるための道具だったのだ。そういう言葉を自由に扱えない限り、抽象的なことなど考えられるわけがない。そのことは、この10年間で頭に登る事はあったけど、日常生活の皮膚感覚で理解出来たのは、本当につい最近になってからの事だった。最近ツイッターやら本やらを読んでいて、思考は言葉があって初めて成り立つという場面に何度も出くわした。僕は今までの自分が急に恥ずかしくなった。

今本当に答えの無い世界に生きているので、もっと言葉を大切にしていきたい。
このブログを書いていて、改めてそう思うようになった。
言葉って本当に大切だ。子供が出来たら、数学とともに国語の素晴らしさも教えて上げたい。