醜悪の微笑み返し

昨日サークルの飲みをさぼって帰宅。非常に空腹で、最近野菜を食っていなかったってのもあって、近くのスーパーにチンゲンサイともやしを買いに行った。
その日は小雨。傘はない。鳴り続ける腹。しかもチャリを最近なくした(おそらく盗まれた)ため、徒歩。
最悪。


しかも、歩いている途中、俺がこの数日のうちに片付けなきゃいけない問題の多さを考えていると、めまいが起きそうになった。
「でも、これは今の生活が非常に充実している証に違いない。そうだろ?」
とか独り言をいいながらびしょぬれで闇の中を歩く。見た目的にも末期。
そんな時、スーパーで牛乳を買おうとして飲み物コーナーを歩いていたら、お父さんと一緒に麦茶のパックを買っていた、三歳ぐらいの小さな女の子とすれ違った。
その子はピンク色の服を来て、すっごくチビで、頭が重たいらしく、お父さんの手を握りながら酔っぱらいのようにふらふらしていた。
なんとなく『小さい人がいる』とか思いながらその場を通り過ぎようとおもった。が、その瞬間、女の子と目が合った。
すると、その女の子、健気にも俺に、ヘビイチゴのような可愛い笑顔で微笑みかけたのだ。
それは、俺に一筋の閃光となって、心の闇を振り払った。雪の荒野に一瞬で春が来て、花が急激に咲き出したかのようだった。何かこう、とてつもない衝撃を受けた。
そして、その女の子を通り過ぎるまさに最後の一歩を踏み出そうとしている時、俺の脳内に強烈なアドレナリンが噴出して、急激に思考回路を回転させた。
俺がその瞬間に想い描いたのは、英国紳士だった。
俺は一年の時、英国紳士になりたいなーと思っていた。英国紳士は背筋をピンと伸ばし、言葉遣いは丁寧で、身なりが美しく、ユーモアがあり、洗練されていて、野蛮な俺とは雲泥の差。
英国には今でもそんな人が沢山いるのだろうか?それは『ニッポーン・フジヤマー』とか言ってる外人と同じ考えなのだろうか?
同じ考えだった。
俺が去年見たイギリスはいい場所ではあったけど、汚くて、ロックな印象を受けた。地下鉄では、飲み過ぎた酔っぱらいがゲロを吐き、イチゴのゼリーが床にひっくり返って揺れていた。
なんて汚いんだ、日本のほうがぜんぜんきれい。
ところがある日。地下鉄に乗っていると、ある女の人と目が合った。日本なら、まず普通に目をそらし、本やらケータイをいじくるとこだろう。実際俺はそうしようとした。ところが、驚いたことに、その女の人は俺に微笑みかけてきたのだ。
はじめは俺に気でもあるのかなとアホなことを考えていたんだけど、あとで、今度は男の人と目が合い、その人にも微笑みかけられた。
で、その頃から、ほとんどの人が目が合うと微笑みかけてくるということに気がついた。
これは衝撃だった。
初めての人に微笑むなんて、本当に素晴らしいことじゃないか。現に俺はいい気分になった。まるで無言で意思の疎通をしたかのよう。紳士の国の隠れた片鱗を見たような気がした。
でも、それは根本の常識が違う日本では通用するわけない。都会は特にそうだと思う。女子高生に微笑みかけたら変態扱いされるのがオチだ。他人は他人。正直、別にそれでもいいんじゃないかと思う。他人と他人の間には、人間らしい暖かさが無いのだとしても。
でも、さっきの少女の笑顔は、そういう考えを揺るがす衝撃だった。このスーパーに向かうまでの憂鬱な気分を現に吹き飛ばしてくれた。
別に優しくしてくれたわけじゃない。思いやりの心があったわけじゃない。ただ、笑顔だけで、ここまで人の心を揺さぶることが出来るなんて!
俺は女の子を過ぎる一歩を踏み出して、既にさらに数歩歩いていた。
俺はこのまま通り過ぎるのか?俺は笑顔をもらったのに、それを返してやれないのか?
お前は紳士になろうと思ってたんじゃないのか?もうそういう心は少しも残ってはいないのか?
恥ずかしくないのか?
あの女の子に敗北するって言うのか(いつの間にか思考回路が勝負事に変わっている)?
ま、ま、負けてたまるかーーーー!!!
俺はきびすを返し、チンゲンサイともやしを両手に抱えて少女に近づいた後、顔面の筋肉を駆使して微笑みかけた。
俺は憂鬱だった上に、色んな英国紳士やら劣等感やらな考えが悲壮感となって顔面に現れていたにもかかわらず、それらを無理矢理笑顔に変えて、全力で微笑みかけた。
そして、少女の笑顔に負けないような可愛さを全面にだそうと、必死で笑顔で微笑みかけた。
少女は、父親の陰に隠れ、泣き出してしまった。
fin