慰霊の日の思い出

今早朝のサッカーヤバかった・・。超面白かった。でも結果はブラジルに2-2の同点で、結局グループリーグ突破ならず・・・。
で、悔しい悔いとかいいながら6時に寝て、起きて見たら11時59分。おお、寝過ごした。
しかし、なんか大事な事を忘れているような気がする・・・
あ!今日『慰霊の日』だった!黙祷しなきゃ!
で、そのままさらに30分二度寝してしまった。
そう、今日は『慰霊の日』なんです。
6月23日は、沖縄では『慰霊の日』と言ってすべての学校が休みになる特別な日です。いまから60年前、牛島満司令官が摩文仁で自決したため、現地日本軍の組織的抵抗が終わりました。実際には戦闘はその後も局地的につづくのですが、この日『慰霊の日』と定め、住民の三分の一(!)が死んだ過去の悲劇を忘れないようにしよう、というのが、この日が定められた主な理由であります。
この日、沖縄では12時になると、皆一斉に黙祷を捧げます。
でもね・・・やっぱり限界があると思う。
昔こんな事があった、と言われても、もちろんこっちは理解しようとするけど、環境があまりにも変わりすぎていて、実感としてなかなか湧いてこない。
実は、いまでも戦争の傷跡って結構残っている。
例えば不発弾。もうしょっちゅう見つかってる。俺だけでも2年に一回は不発弾処理による避難勧告をうけた。
特にウケたのが2浪の時。これは海で見つかったものだったと思うんだけど、そのうち3発を業者の人が県庁に持って来てて、そこで不発弾の信管が抜かれてない事に気づき、県庁を中心に避難勧告が出された事があった。
うちの予備校も避難勧告が出されてたんだけど、みんな普通に自習してた。それだけ皆慣れているんだ。
さらにビビるのが、俺が実際に手榴弾を発見したことがあるという事。
沖縄以外だったら、まずないっしょ。
でも、それが戦争の実感に結びつくかというと・・・残念ながらノーだ。結局実際の戦争がどんなものなのか、何一つわかっていないと思う(まあ、あたりまえなんだけどね?)。
どうあがいても、やっぱり歴史というものは風化していくものなのかな・・・
しかし、俺はこの慰霊の日という事で、別にたいして重要な日じゃないとおもってるのか、というと、決してそうではない。
俺が高三の時だった。
6月23日、甲子園の地区予選が行われいた。俺はハンドボール部と応援団を掛け持ちしていたので、ものすごい灼熱の太陽の下、中学のときの学ランとはちまきと軍手をつけて、フレーフレーと応援していた。
うちは出来たてホヤホヤの高校だったので(俺は一期生)、伝統も何もない。野球部も弱小で、終始試合の主導権を握られっぱなしだった。
灼熱の熱さでくらくらしながら、無我夢中で吠えまくっていたら、突然サイレンが鳴った。その後場内アナウンス。
「ご来場の皆様、ただいま那覇国際高校と浦添商業高校の試合中ですが、今日は慰霊の日です。正午になりましたので黙祷を捧げましょう。黙祷」
その瞬間、『今、現在』という波が、青い空の遥か彼方に引いていくような感じがした。
残ったのは、驚くほどの静かな時間。
強烈な太陽を照り返してまぶしいぐらいのグランドと、雲がほとんどない青空で作られた空間は完全に時が止まっていた。
皆黙っていた。選手も観客も。
みんな、しずかに祈りを捧げている。
で、俺この時直感的に思った。
ああ、これが平和なんだって。
その時の感覚をどう表現すればいいのか、俺にはわからない。
でも、『慰霊の日』で、確かに感じたあの感覚。
『慰霊の日』はこの世に戦争がない、という意味での平和を実感する日であり、それが今後もつづく事を願う日でもあるんじゃないかと思った。
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俺の意見をいろいろ書いてたんだけど、陳腐なのでやめました。
それとも、意見書くのから逃げてんのかな、おれ。
今年で戦後六十年。『慰霊の日』がなくなるってうわさ、本当なのかな・・・。戦争体験者が死んで、慰霊の日がなくなったら、沖縄の人々はいままでのように、過去の体験を振り返ることをするんだろうか・・
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↑5年前の6月23日、沖縄にて。