言葉ってやっぱり大切

今日はかなりイタい話だけど。
僕はここ10年ぐらい、「考える」ってどういう事なのか見失っていた。周りから良く考えろといわれることがたびたびあったけど、そのたびに「考えるってなに?どうすればいいの?」と疑問に思っていた。
なぜか学校の勉強はなんとなくできた。何か問題が与えられた時にそれを解いたりするのは国立大に入れるぐらいまではやった。でも現実の答えの無い世界の中で、最適解を選び取って進んでいくための思考のあり方はよくわからなかった。これで良く大学院を卒業出来たもんだ。

結論からいうと、僕は言葉の力を舐めていた。言葉はある事柄の側面しか切り取らないと思っていた。ある感覚を言葉で表してしまうと、その豊かさを削ぎ取ってしまって、無味乾燥な記号しか残らない。だから、なるべく言語化しない方がいい、言葉ではなく感覚で思考するべきなんじゃないのかと思っていた。感覚で思考するって・・・。俺がいうのもなんだけど全然意味が分からない。

言葉で思考することを拒否しだした原因はいくつか思い当たる。
高校の終わりらへんで、受験勉強が出来ずに大分落ち込んでいた頃。このままじゃ全然駄目だ、もっと頭を良くしたい(単に努力が足りなかっただけなんだけど)。そんな状況の中で、書店で「すぐに頭が良くなる」系の本を見ると、手に取らずにはいられなかった。世の中を見渡すと、確かに異常なぐらい頭のいい人達がたくさんいる。この本を読めば、僕もそうなれるのかもしれないと思っていたのだ。で、そういう系の本に書いてあるのは、大抵「眠れる右脳の力を全開にすれば天才になれる!」という話。

一般の人達は、日頃言葉を良く使い、計算をする。つまり左脳ばっかり使っている。でも、イメージを司る右脳を使いこなせるようになれば、言葉ではなくイメージで処理できるようになり、すんごい天才になれる。普通に考えればかなりうさんくさい話だが、当時の僕には革新的な考え方に思えた。

そもそも、僕は国語が大嫌いだった。小説がなぜテストの問題になりうるのか全然理解出来なかった。現代文はムダに難しい言葉を使っていてチンプンカンプンだったし、もっとわかりやすく書けばいいんじゃないのかと思ってた。だから、この「右脳でモノを考えましょう」「言葉でなく、イメージでモノを捉えましょう」という教えは僕の中にすんなり入ってきた。そして、これこそが僕をオリジナル足らしめる秘訣なんじゃないのかとさえ思った。それは、世界の秘密を知ってしまったような気分だった。そして同時に、言葉を使って考える事を、遅く非効率なやり方だと考えるようになった。これが僕を10年間も縛り上げた。

数学でよくわからない数字にXという文字を当てはめるように、漠然とした事象に言葉を当てはめながら物ごとを整理していかないと、考えられるものも考えられない。国語という科目が重要なのはまさにその点だった。文章を読んで書かれている内容を論理的に理解する。また、自分の中の漠然とした考えを言葉にして整理し、纏める。物ごとを考える上でかかせないこの行為を鍛え上げるのが国語という科目だった。

現代文で使われている難しい言葉は、抽象的な問題を論理的に考えるための道具だったのだ。そういう言葉を自由に扱えない限り、抽象的なことなど考えられるわけがない。そのことは、この10年間で頭に登る事はあったけど、日常生活の皮膚感覚で理解出来たのは、本当につい最近になってからの事だった。最近ツイッターやら本やらを読んでいて、思考は言葉があって初めて成り立つという場面に何度も出くわした。僕は今までの自分が急に恥ずかしくなった。

今本当に答えの無い世界に生きているので、もっと言葉を大切にしていきたい。
このブログを書いていて、改めてそう思うようになった。
言葉って本当に大切だ。子供が出来たら、数学とともに国語の素晴らしさも教えて上げたい。