もし幽霊がいるのなら、妖怪もいると思う(他2編)

こんばんは!
今夜もむっちゃ長いです。まじめな話の3部構成です。
1.もし幽霊がいるのなら、妖怪もいると思う
僕はぜんぜん幽霊が見えたりするわけではないですが、もし幽霊がいるのなら妖怪がいても全然不思議じゃないんじゃないかと思います。


幽霊といったら生き物が死んで魂だけが残った状態のことをいうわけなんですが、じゃあ、はじめっから肉体を持たない、魂だけの存在がいたって良いんじゃないか?と思うわけっすよ。
で、多分そういうのは、見える人にはおぼろげにしかみえないんじゃないでしょうか。もしかしたらハッキリ見える人も中に入るのかもしれませんが、たいていは姿、形がぼんやりとしか見えないわけです。
すると、もしその妖怪を見た昔の人は、自分の見た化け物の姿をなんとか人に説明しようと、いろいろと工夫や比喩表現を駆使します。例えば、ある人が、『巨大な顔があってその周りを煙のようなものが渦巻いている』ような、なんとも形容し難い化け物に出くわしたとします。すると彼はなんて周りの人に説明するでしょうか?
「そいつは、でかい顔が中央にあって、周りに、まるで車輪のように煙が渦巻いていたんだ」
というかもしれません。
すると、いつしかそれが人から人に伝わり、『馬車の車輪の中央に、巨大な人の顔のついている化け物』、つまり、輪入道が誕生してしまうわけです。どんどん話に尾ひれがついて、やれ火を吐くだの、やれ人を食うだのと次第に特殊能力が付加されてくるわけなんですが、元を正せば、『体を持たない、見えない動物』なのが妖怪の正体なのかもしれませんね。
それにしても、怪談新耳袋のあとがき?注釈?によると、最近は妖怪の目撃談が少ないそうです。『見えない動物』達の生態なんて人間にはわかるはずがないし、対策なんて施しようがありません。いつの間にか、いろんな種類の妖怪達が、地球環境の悪化によって絶滅しているのかもしれませんね。
2.死を考えることの意義
死後の世界のことじゃなくて、いかに死ぬかを考えるのはすごい重要だなあって、去年あたりからバイトの関係で強く思うようになってきました。(ここでの『死』は病死、または老衰死です)
僕はケアハウスでバイトを1年以上続けているわけなんですが、そこで入居者を見ていて色々わかってくることがありました。
1)現状に不満を持っている人と持っていない人がいる
当たり前のことなんですけど、高齢の方々には現状に対して不満を持っている人と持っていない人がハッキリ分かれているように感じます。
それで、現状に対して不満を持っている人の話を聞いてあげたりすることがあるわけなんですが、どうもその不満の原因は、それまでの人生の生き方という、かなり深い部分に根ざした物である場合が多々あるように思います。 
また、現状に満足している人と話していると、だいたいの人が、若い頃からいろんなことに好奇心を持っていて、周りの人間に支えられながら今なおチャレンジ精神を失わず積極的に物事に関わっていく人が多いようです。
こうして見ていくと、いかに老後を楽しく暮らせるか、楽しく死んでいくかは、若い頃の生き方に大きく関係しているということがいえると思います。
2)老いてもやっぱり死は怖い
一般的に高齢の方は『死を受け入れている』『死を恐れていない』といったイメージがあると思いますが、それは大きな間違いで、実際には誰よりも恐れているし、その分健康にも気をつけている方がたくさんいます。
死を恐れるのは若い人も同じ。もし自分が明日死ぬとしたら、僕は絶対未練たらたらになると思います。高齢になってもそう思わないためには、やはり若い時をいかに生きるかが重要です。
じゃあ、どうやって生きて死を迎えるのか、ってことになってくると思うんですが、僕はやっぱり満ち足りて死にたいです。『オレはやった!』とガッツポーズをして死にたい。
多分、今後少子高齢化が進み、ただでさえ孫がすくなくなっていく上に、子供達は高齢者達の生活を支える年金を払うために一生懸命働くので、最後を迎える時は恐らく一人の可能性が高いと思います。
たった一人でむなしく死んでいく状況で(なるべく妻を看取ったあとに死にたい)ガッツポーズをするには、それだけ熱く生きていくしかない。それはすごく大変なことですよね。『死ぬまでその日その日を楽しく生きていく』だけで果たして良いのか、ちょっと疑問が残ります。
それにしても、ガッツポーズをするような熱い人生っていったいどんな人生なんでしょうか?それについては今後時間や経験を積んで考えていかなければならないことなのかもしれません。しかし、ヒントがないわけでもありません。
アブラハム・マズローという偉い心理学者が昔、人間には欲求の5段階が存在すると主張しました。それで、五段階の最上位、つまり一番位の高い欲求に『自己実現の欲求』を掲げました。自己実現の欲求とは「自分の能力・可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求」(wikipedia)のことを言います。
はたしてこの自己実現の欲求を満たすことがそのまま人生の喜びにつながるのかどうかは疑問ですが、ある程度の生活水準を満たしている限りでは、少なくとも生理的欲求よりは高い満足感をもたらしてくれるのではないかと思います。
考えてみれば、あの『北斗の拳』のラオウも、ケンシロウと死闘を繰り広げることで自己実現を果たしたがために、『我が人生に一片も悔い無し!』って絶叫したのでしょうね。
で、なんだ、結局はまた人生の目標を持てってことか、となりそうなんですが、その目標は以外と、単に地位を獲得する、とか、高い収入を得る、といったことに限るわけではないようです。
なぜなら、死ぬ前にガッツポーズができる、振り返った時に全く悔いが残らない、そんな深い目標であるべきだからです。
・・・うーむ、奥が深い(と思う)
3.かわいい物が好き
以前このブログで目標がなんなのかよくわからなくなったと書いたけど、最近は大きな目標は自分で育てる物だというふうに考え方が変わってきました。ましてや死ぬ前に後悔しないような人生の目的なんて、絶対いまの段階では分かりっこ無いという気さえします。そのような目標は、種を見つけて、水をあげて育てれば良いのではないでしょうか。
じゃあ、目標の種ってなんだろうと思い、僕の好きな物に着目することにしました。そこで、これからは、自分が何を好きなのか、気付いたことを集めて分析してみることにしました
で、今日初めて東京デザイナーズウィークに行って、色々見ているうちに、オレ、結構可愛い物好きだなあ、ということに気がつきました。
好きな物
スピッツ(可愛い)
アイボ(可愛い)
Apple社の製品(かっこいいけど、可愛い)
±0の製品(まるっこくて可愛い)
佐野研二郎のグラフィック(可愛い)
イームズの椅子(ミッドセンチュリー風で可愛い)
くるり(名前が最高に可愛い)
キティーちゃんとか、そういう♡♡した感じのやつは別に好きなわけではないのですが、まるっこい、河原の石のような感じの可愛さに心引かれる気がします。明らかにマックのデザインの影響を受けているような気がしますが、そういう好きな感じを大切に、追求することが、目標設定を含め今後の身の振り方に影響を与えてくるのかもしれません。