少年の世界

小学生の時は、世界はどこまでも広くて、いつか世界中を旅したいと思っていた。

家の近所の公園の滑り台から見える海を見て、その向うにはなにがあるのかと、テレビや教科書で知ってるくせにアホみたいにぼんやり思っていた。

砂漠にはなにがある?洞窟にはなにがある?密林の中には?古代の遺跡の中には?この世のありとあらゆる全てをこの目で見たいと思っていた。

でも、大人になるに従って、世界は、小学生の時に想像していたよりは、少々退屈な場所だと理解するようになる。世界は人工衛星でくまなく調べられ、誰にも見つかっていない島など無いし、前人未到の森など殆ど無い。時々見つかる新種の動物といえば小さい虫ぐらいだし、不思議なものもあらかた発見されてしまった。そしてそれらは、パソコンのキーボードをちょこっと叩けば、画面に出てくるようになる。

今や僕も四六時中狭い部屋で一人、机に向かって絵を描いている始末。世界もなにもあったもんじゃない。

それでも、Facebookで中学の友人の息子の写真を見た時、忘れかけていた世界は広いと信じている自分を思い出して感動してしまった。もうだいぶ昔の話だけど、僕にも確かにその時期があった。

首里城の城壁に立って世界を見渡す息子の背中を見ながら、友人は父親として何を思ったのだろうと想像しながら描いた。子供のいない僕にはその領域はわからない。
僕だったら息子になんというだろうか。
僕は結局世界を旅してないから、息子に本当の意味で「世界は広い」とは伝えられない。でも「お前が行って見てこい」とは言える。きっとそういうと思う。