「夜の歩き方」を実践した時の話

このあいだ夜中に稲毛駅から自宅まで歩いていた時のこと。その日はたまたま暗い裏道を歩いていたら、ちょっと前の方を中年の女性が歩いていた。しばらく歩いていると、この人の歩く速度は僕より少し遅いらしく、徐々に距離が縮まってきた。

 

その時、僕は何かの本で桜井章一が言っていたことを思い出していた。それは「夜の歩き方にはレベルがある」ということ。

レベルの高い歩き方とは、周りに不安感を与えない歩き方のことだ。

例えば、夜、女性が一人で前を歩いていたとしよう。女性にとって一人で夜道を歩くのは怖いはずだ。ここでもし、あなたが女性と一定の距離を取りながら歩いたりするともう最悪。女性は後ろの誰かに付きまとわれているような不安感を感じてしまうことだろう。

一方で、レベルの高い「夜の歩き人」は、この場合わざと足音を大きめに立てて、急ぎ足で女性を抜き去る。前を行く女性に自分の存在を知らせつつ、相手の前に出ることで不安感を和らげるというテクニックだ。しかしこれは言うのは簡単でも、なかなか難しい。

まず足音をたてすぎると「変な人がいる」と勘違いされてしまう。あくまでも女性にやさしいジェントリーな感じで大きい足音をたてなきゃいけない。また、追い抜きダッシュをかけるタイミングも重要だ。背後から長い距離をカツカツカツカツ近づかれると、非常に怖い。ダッシュをかける時の女性との距離感も重要。僕はよく夜遅くに駅から家まで歩くので、この技術は身につけたかった。何度も何度も頭の中でイメージトレーニングした。女性の背後に近づき、一気に追い抜く。それを繰り返した。

 

そして、今、頭の中のイメージとほぼ同じ光景が目の前に広がっていた。ついに実践するときが来たのだ。
ある程度おばちゃんに近づいた時、一気にダッシュをかけた。ところがここで石を蹴ってしまい、慌ててしまって足音が必要以上に大きくなってしまった。すると前のおばちゃんが驚いたのか、急にスピードを上げた。
それで俺も慌ててスピードを上げたが、ここで大きな誤算があったことに気がついた。

このオバちゃん、思っていた以上にめちゃくちゃ足が速い。

僕も追いかけるが追い越せない。1メートルぐらいの差が縮まらないのだ。大きなリュックサックを背負ったオバちゃんだったが、普段から足腰を鍛えているのか、ものすごい早さで足を回転させる。

そこでハッとなって立ち止まった。なにも追い抜かなくていい、ってことに気がついたのだ。僕はその場に立ったまま、オバちゃんとの距離が十分に開くのを待った。

すると20メートルほどむこうの街路灯の下まで来た時、オバちゃんも立ち止まり、こちらを振り返った。ちらっと目があった。
すると、「おお、こわっ」と言わんばかりに肩を震わし、すぐあとの曲がり角を曲がって消えた。

なんか怖がらせて申し訳なかったけど、ちょっとイラッとした。


ビーチパーティーで悪寒

今日は海の日だから海の絵です。天気もいいのに朝から部屋にこもって作業をしていたので、海の日としては残念な一日だった。だからせめて絵だけでも楽しく描こうということで、アルバムをめくって絵の題材を探してみると、、出た。9年前のバーべキューのときにやった、ビーチサッカーの写真だ。

この日は僕はほんとに「寒かった」。というのも、ちょうどこの日風邪を引き始めてしまったからだ。缶ビールを飲みながらサッカーをしてると、ただでさえ酔っ払っている上にだんだんだるくなってきて、さらに悪寒まで感じるようになってきた。たまらず僕はサッカーを抜けて、砂浜に横になった。
その日は目も開けてられないぐらいの強烈な日差しが照りつけていたんだけど、体の表面は暑いものの、体の芯は寒いという気持ち悪い状態になっていた。

ところが、周りの連中は僕が単に酔っぱらいになったとしか思っていなかったようだ。強烈なだるさのためフラフラ歩いていると、お前酔っ払いすぎだろと言ってくる。砂浜に横になると、酔っぱらいはここで寝ろと看病どころか指図される。さらに僕が「寒い」というと、どんだけ飲んだんだと呆れられ、水を無理やり飲まされる。

僕はたまらず、重い体を引きずって、バーベキューの場所から少し離れた浜辺まで行き、そこで横になった。そして結局誰の手にも看病されず、放置され、序盤から終盤まで酒も飲まず、肉も食わず砂浜で寝そべっていた。

こう見ると、海にいても部屋にいても、残念なのは変わらないな。。


この時代にアナログで絵を描く意味がちょっとわかって衝撃を受けた

自分の絵について、ちょっとだけ価値観がぐらつくことがあった。デジタルかアナログか。巨人か阪神かみたいな問題です。

 

1.

多分、今後もデジタルで絵を描くとは思う。というのは、やっぱりデジタルで描くと「モノ」に囚われなくて済むからだ。

たとえば、アナログで絵を描くためには、絵の具が必要だし、筆が必要だし、パレットも水も描く紙も必要だ。簡単な絵なら別に少ない絵の具でもいいのかもしれないが、ちゃんといい絵を描こうとすると、それなりにいい筆、それなりにいい絵の具、それなりにいい紙が必要になる。

でも、「それなりにいい」の度合いが増してくると、揃える道具の値段がどんどん上がってくる。筆も一本500円から1000円以上するものもあるし、絵の具だってかなり高い。しかもそれらは消耗品だ。さらに、絵に特殊な効果をつけようとするならば、ペインティングナイフを買ったり、メディウムを何種類も買ったり。さらに他の画材に手し始めると、パステル、色鉛筆、クレパス、マーカー、エアスプレー・・・とキリが無くなり、出費がますますかさむ。しかもそれらをきちんと管理するのも大変。そして、「モノ」を扱うのだから、描くのも時間がかかるし、失敗したらやり直しも面倒だ。

さらに描き終わった絵も、「モノ」だ。狭い部屋だったら、置き場があっという間に無くなる。それに他人に見せるのも大変だ。アナログで描いた絵を、綺麗に写真でとってデータ化するのは、それなりに高い機材と技術が必要だ。実物を見せるにしても、ギャラリーなどに置かない限り観てもらえない。大きいものを運ぶとお金もかかるし、ギャラリー代もバカにならない。

それにイラストレーターならば、アナログで描いたとしても、世に出るのは「本」や「雑誌」といった印刷物。作るのに金も手間もかかるのに、結局デジタルで再現したものと変わらない。

 

2.

それにくらべて、デジタルは「モノ」ではなく「情報」だ。「モノ」ではないから手で触ることができないが、そのかわり「モノ」に囚われることもない。パソコンといった初期投資こそ高いものの、あとはいくら作って失敗してもお金がかからないし、何回でもやり直せる。また、作った後もモノが出ない。どんなに場所をとっても、それはハードディスクの中の話。しかも最初からデータなので、ウェブに載せやすい。ブログは、いわば無料のギャラリーだ。だから多くの人に気軽に見てもらえる。

まさに夢のような21世紀の描き方。「もの」に縛られないフリーな世界。さすがにギャラリーでアナログ作品と並べると見劣りはするものの、いろんな面でアナログより有利。この21世紀にアナログを選ぶ理由なんてあるんだろうか?

……..というのが、つい最近までの僕の中でのデジタルVSアナログ対決の結果だった。ところが。。

 

3.

この間、大学の友人である藤井良多が、こんな時代だからこそ絵はアナログで描いたほうがいいと言っていて、え、なんで?と思った。それはこういうことだった。

アナログは確かに描くのに手間がかかる。コストもかかるし管理も大変。でも、アナログでいい絵を描けて、それを上手くデジタル化出来るならば、はじめからデジタルで描くよりもそっちのほうがいい。描いた絵に人気が出れば、web上にどんどん広がる。でも、真に価値があるのは原画。必ずそれを高値で買いたがる人が出てくるはず。

・・・・・

考えてみれば、そりゃそうだ。それがすごい絵だったら、ネットにのせれば一気に広がる。そして、たとえ周囲の人間は見向きをしなくとも、世界のどこかには、高価で買い取ってくれる人も現れるかもしれない。アナログで描いた絵を、今ほど宣伝しやすい時代は無いのだ。

当たり前すぎて一瞬ぽかんとなったけど、それは「『モノ』という事自体に凄い価値がある」、という事実を再認識した瞬間でもあった。「モノ」に縛られ大量のお金を投資し、練習の過程で大量のゴミを生産する。でも、それは「モノ」という凄い価値を生み出すためだったのだ。そして「情報」は情報にすぎない。だから「モノ」の価値を伝えるため使う。

僕の価値観がグラグラと揺れだす瞬間だった。原画がある絵とない絵。そこには、思っていた以上にすごい差があるんじゃないのか。

 

4.

で、僕はどうするのかというと、、、と書こうと思ったけど、混乱するだけだったので、今は書かないです。ていうか、このことを今再認識している時点で今まで考え方が浅かったなと。本来ならば「デジタルは描きやすい。でも実体のない情報にすぎない」と認識することがスタート地点とも言える。その上で、自分のイラストに対する価値観を組み立てる。

自分の描いている絵がどういう価値を持っているのかは、市場が決めることかもしれないけれど、自分の絵にどういう価値観を持っているかによって、自分の絵に対する態度が決まると思う。

こんなことを書くのはこっ恥ずかしいが、僕は自分の絵に対して誇り高くありたい。ちょっと根底がぐらついたけど、もう一度自分がデジタルで絵を描く意味を見つめ直して、価値観を構築していきたい。

 

5.

ということで、今週もどうぞよろしくお願いいたします。

皆さんもいい一週間になりますように!!

 

 

 


嵐を待っていた

東京アメッシュっていうサイトがあって、これは関東の雨雲の様子が五分ごとにわかるようになっている。

今年の春、僕が家で作業中、横浜でゴルフボール大の雹が降ったとツイッター上で大騒ぎになった。それでアメッシュを見てみると、真っ赤な雲の塊が神奈川上空を覆っていていた。サイトを見てもらえばわかるが、赤は「猛烈な雨」を意味する。正直、こんな火のような雲は見たことがなかった。しかも、それが徐々に東に向かってくる。このまま東に行くと千葉に直撃だ。
次第にツイッターでは東京にいる方が「凄まじい土砂降りだ」と騒ぎ出した。しばらくすると雨雲の最前線が東京湾上空にさしかかり、さらに5分経つと市川に住んでいるひとが「雹だー!!」と騒ぎ出した。
それでいよいよ千葉にも来ると思い、なぜか興奮して、胸が一杯になった。雹が降るなんて、危険すぎるだろ!とひとりごとを言いながら、いてもたってもいられなくて、部屋の中をウロウロして、指を折りながら危険なポイントを列挙したりした。そして窓際に膝をつき、嵐がくるのを今か今かと身構えていた。
すると次第に空が黒くなった。そして風も強くなった。そして。。そして。。

風が次第に弱くなり、やがてやんだ。空も次第に明るくなってきた。

アメッシュを見ると、雨雲は見事に千葉県の北西部を通過して茨城を真っ赤に染めていた。

こんな肩透かしはいらないです。

 

ということで、今週もお疲れ様でした。
つぎは日曜日。の深夜。来週もどうぞよろしくお願いします。


坂口恭平のぷちファンになった / ツイッターで人間関係に悶える

1.

最近ボクの中でも坂口恭平が熱くなりつつある。ちょっと前に「独立国家のつくりかた」っていう危ないタイトルの本を講談社の新書で出しているんだけど、これが、めっちゃくちゃおもしろい。といってもまだ50ページほど残っているからこの人はどうだ、とは言えないけど、とりあえず、右とか左といった政治の話ではない。そうではなくて、生き方の話。

この人は大学の時、あるホームレスと出会った。その人は、ゴミをいろんな形で再利用して、素晴らしい家を作り上げていた。ただダンボールを組み合わせるのではなく、ソーラーパネルを取り付けて発電もできるし、防犯設備の整った窓も自作で取り付けていた。これはもはや立派な家と言えた。さらに水とトイレは近所の公演で済ませ、風呂は週に一度銭湯へ。ほぼ0円で、日々を普通に生活している。その事実に衝撃を受け、家とは何か、お金とは何か、と考えるようになった。

今の世の中の常識を疑って、徹底的に考える。それが坂口恭平の最大の魅力だ。自分独自の経済も考えだし、家のあり方、お金のあり方、国のあり方、そして人生のあり方、いろんなことを一から考えなおして、実践に移す。読んでいていちいち、目からウロコ。こんな人がいるのかと衝撃を受けて、目がうるうるするほどだった。もうすでにファン。今後どうなるのかすごく楽しみ。

2.
全然関係ないけど、最近ツイッターを見てて、人と人の関係性を感じて興奮することが多い。例えばお笑い芸人の水道橋博士をフォローしているんだけど、彼がものすごい坂口恭平のファンらしい。ツイッターの中で、彼のことを天才だ狂人だと言って、何度もつぶやいている。水道橋博士の方がぜんぜん歳上なのに、この熱心なファンっぷりを見るのがなぜか気持ちいい。そういえば彼はビートたけしを崇拝して追っかけをしたのが芸人になるきっかけとなった。同じ匂いを感じているのかと思うと胸が熱くなる。

同じく興奮してしまう関係が橋下市長と経済学者の池田信夫(二人の主張していることが好きか嫌いかは別にして)。二人は原発問題や消費税増税問題で凄まじいバトルをツイッター上で繰り広げてものすごかったけど、初めは全否定だった橋下市長がある段階から池田さんを認める発言をし始め、池田信夫の方も普段は皮肉を言っているくせに、ところどころで「でも応援してる」的な発言を挟み込んでくるので、うおおお!!となる。「ツンデレとはこういうことか!」と叫びたくなるね。あるいは殴り合いの後に「おめーつえーじゃん」と言い合う番長のような。べつにBLファンじゃあないよ。