皆でYOKOHAMAに行こう

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6月27・28日に横浜で、ECO 2008 YOKOHAMAというパフォーマンス、インスタレーションなどを行うイベントが開催されます。
世界を渡り歩くドラマーや、エレクトロニック系、バンド、ボイスパフォーマンス、「食」をテーマにしたパフォーマンス等が一堂に集結して、いろんな化学反応を起こしていく面白いイベントです。
今回は普段よりもバージョンアップして2日の開催となります。
会場も創造空間9001という、旧東横線桜木町駅だった場所を改造して出来た場所で、空間演出的にも面白いものとなると思いますので、興味を持った方はぜひふるってご参加くだされ!
僕は当日受付やっていると思うので、僕に会いにくるってことでもかまいませんのよ?ホホホ
スケジュール
28(土) ECOライブ : OPEN 18:30 / START 19:00
29(日) インスタレーション + フリーセッション : 12:00-16:00
      ECOライブ : OPEN 18:00 / START 18:30
ENTRANCE : 2500 YEN(コーラ25本我慢すればOKだね!)


生活と情報選択

1.
茂木健一郎が『世界知』と『生活知』について書いていたんだけど、これって、もしかしたら昨日の『情報をどう判断したらいいのか?』っていうことへのヒントになるかもしれないなと思った。
『世界知』・・土星は約30年かけて太陽を一周する、とか。要するに学者や専門家といった他人が発した、自分の外の知識・情報。
『生活知』・・冬の水は冷たい、徹夜すると疲れるといった、生活に密着する知識・情報。
『世界知』と『生活知』はお互いに影響し合っている(水平線を見ると何となく丸く見えるのは、『地球は丸い』という『世界知』が少なからず影響してる)。でも、『世界知』があーだと言っているからといって、必ずしも『生活知』をそれに反映させなきゃ行けないってわけじゃないんだよね。
例えば、語学を勉強するとき、幼い頃に習得しないとネイティブ並みにはなれないなんて言われているけど(『世界知』)、実際に勉強する上ではその知識は何の役にも立たないし、そんなの忘れてしまって勉強した方がよっぽどマシ。
2.
例えば、複数の『世界知』が提示されていて、どちらを選択すればいいのかわからない時、『生活知』とすりあわせることで、ある程度それが正しいのかどうか見ることが出来るのだと思う。
結局は、その知識を自分の生活の中で例を見つけて考えよう、ということだ。その『世界知』が日常生活と食い違っているのであれば、なんで食い違っているのか考えられる。それを突き詰めていけば、正しい選択が出来る可能性が高まると思う。
全ての場合に当てはまるのかはわからないけれども。
3.
結局は、聞いた話を自分の中に取り込んで考えられるか?ってことだよね。でも、その『世界知』があまりにも自分の生活から離れてしまっていては判断が難しい。「それってこういうこと?」っていう問題の置き換えをしながら、『世界知』と『生活知』を照らし合わせて考える必要があるのかもしれない。
それにしても、『生活知』ってスゴく曖昧で、人の経験によって全然違う。だから情報の選択の仕方は人それぞれだし、それをもとにした『自分の答え』もまた変わってくると思う。
日々をちゃんと『生活』して生きていくことが、情報をちゃんと判断する上で必要不可欠なのかもしれないですね。
コケ

↑千葉市緑区誉田に言った際に見つけた、きれいなコケの列


環境問題はよくわからん

1.
最近、本当に環境問題ってよくわからないなあと思った。特に温暖化あたり。
温暖化は実際に起きているのだと思う。でも、それが人為的な結果のかはわからない。また、京都議定書が本当に有効なのかも、僕の中では大分疑わしくなってきた。
もっといろんな情報を読まないと多分どう判断すればいいのかわかんないなあ。
ただ、石油を使わないような世界に持っていくべきだ、ってことだけは改めて自分の中ではっきりした。石油の枯渇は重大なエネルギー問題で、今の文明の根本を揺るがす。
まるで、これはガンみたいな問題だと思った。例えば石油が枯渇するから危険な原子炉を作ろうぜって話になるし、ガス排出権だったり、バイオエタノールだったり、いろんな話が出てくる。領土争いだって起きるし、戦争だって起きる。石油の枯渇をめぐって、人間の思惑が交錯して、形を変えながらいろいろな駆け引きや問題が起きてくる。
自国の文明を維持するために、さまざまな国がいろいろな手段を講じて、石油の次の主要エネルギー源を獲得し、世界をリードしようとしている。
ほんとに環境問題って政治問題だよなーって思う。だからこそ、簡単にそれを信用してはいけないのだと思う。
2.
スピリチュアルだとか、幽霊だとか、僕は何でも簡単に超自然的なことを信用してしまうタイプなので、この環境問題も何の疑念も無く徹底的に信じ込んでいました。
沖縄の珊瑚がどんどん白化して死んでいる。生物がどんどん絶滅し、生態系が破壊されている場所があるのも事実。でも、だからといって、その分析結果や対策が必ずしも正しいとは限らないってことなんですよね。そこにつけ込んで、利益に使用とする人もいるってことを考えなくちゃいけない。
ああ!結局、どうやって情報に惑わされないようにすればいいのかって陳腐な話になってきたなあ・・・
でも、確実にこの情報は正しい!と確信を得てから行動に移す、ってことを繰り返していると、結局は何も出来ずにがんじがらめになるから、そこでどう行動すればいいのか。
あ、やっぱり陳腐だ。
ゴーヤーの種植え

↑今年は永田農法という手法を使ってゴーヤーを育てます。
今回は川砂に液体肥料を加えた水をかけ、そこに種を5粒植えました。
土ではなく、川砂を使うっていうのが珍しいですね。


イラレCSが開かなくなった

MAC OS10.5.3にアップデートしたあたりから、illustratorCSを起動しても、新規ファイルや既存のファイルを開こうとすると強制終了してしまう謎の現象に出くわしてます。
それで、イラレをインストールし直したんだけど、それでもダメ。
それで、俺のパソコンがイカレたのかな?と思ったら、同様の現象が同じ研究室の友人にも起きた。
パソコンに詳しいS先生を召喚して、
「ディスクユーティリティー」

「アクセス権を修復」
を行う。が、回復の兆しなし。
ほかにも、イラレをアップデートしたりとか、OS10.5.3をコンボでダウンロードしたりとか、いろいろやったけどダメ。
どっひゃーーー
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↑mac book pro 1.83GHz Core Duo
もしいい情報を知っている人がいらしたら、教えてください


片付けと父と興味

1.
最近は、研究室の机の整頓や家の片付けをするのが楽しくなってきた。というか、興味があります。
無意識を『手入れ』することを意識し始めて、いかに自分の行動が周りの環境に影響を与えているのか、ということが、少しずつ(本当に少しずつ)見えるようになってきました。
机が散らかるというのも、結局物を使った後、意図せず(無意識的に)その場に置いて放置することから始まります。だから、机を片付けるのは、そのまま無意識の手入れに繋がると気がします。そう思うと片付けが楽しくなってきた。
そしたら、なんかその興味の対象が、どんどん生活全般に行き渡ってきて、料理作るのも、床をほうきで掃くのも、以前よりほんの少しだけ楽しくなった気がするから不思議ですよねー
まー、とはいっても相変わらず部屋は散らかってはいるんだけどねー。
このまま、どんどん意識を向けられる範囲が増えていけばいいなあと思います。
2.秋葉で親父と
先週の金曜日、学会のために上京してきた親父と秋葉原で飲みました。親父は僕がこの世でいちばん尊敬している大人物です。
親父は、那覇市立病院で医者をやっているんですが、2年前から甲野善紀という方が始めた、古武術をベースにした身体操作法にのめり込んでいます。
で、話していていちばん驚いたのは、父は学会の前の週も上京していて、実際に甲野さんに会って、古武術の指導をしてもらっていたということ。しかも、それを病院のお金で!!
話を聞くと、父は院長に、この身体操作法が介護の場面でいかに役立つか、そして、それを看護士に教育することがいかに大切かを、実演を交えてプレゼンし、お金を捻出したのだそうです。
『実演』ということは、2年間独学で身につけた『一見うさんくさい』技術を見せたということ。そして、それが那覇市で有数の病院の院長の心を動かした、ということ。これがどれほどスゴいことかわかりますよね。
「それがいいものかどうか判断するには大抵2年かかる。2年という時間が重要ではなくて、それがいいものか理解するには、長時間必要だということ」
「介護のためという大義名分はあるが、結局はやってて自分の体の動きが変わっていく様子がわかるのが、スゴく楽しかった」
「何歳年をとっても、俺は俺。楽しいことは楽しい。楽しければやる。それはいつになっても変わらない」
金言の連発。
3.自分の変化
父とは、他にも養老孟司の話とかいろいろしましたが、帰りの電車の中で、僕と父の根底の部分には「自分の変化に対する興味」があるんだろうな、と漠然と思いました。
「具体的に何が好き」なのではなく、「何かすることによって起きる自分の変化」が好きなのだと思います。それが全てというわけではないですが。
僕が『無意識の手入れ』に興味を持つのも、『英語』に興味を持つのも、「そういう風に体を変化出来ればいいのになあ」、「そういう風な視点で物を見れたらいいなあ」ということから来ているものが大きいです。そして、その取り組みのフィードバックが自分の体に現れてくるのが何よりも楽しいのかもしれません。
ただ、スポーツ選手と違うのは、あんまり競争したくないということ。僕は負けず嫌いのヒガミ屋なので、競争すると心が安定しなくなります。
精神の有り様を追求する僧侶にも、興味はないです。実生活にあまり反映されないから。
かといって、人と対面時の作法だとか、表面的な身体変化を望んでいるわけでもない。
変化は頭や身体の奥底で起きるものがいいです。生き方、考え方がどんどん変化したり、深化したりして、それが周りににじみ出ればいいと思います。
物の見方が何通りも出来て、何通りの考え方も出来るような人になれれば嬉しいです。そういう方向に向かうような変化を楽しめたら最高ですよね。
それで『無意識の手入れ』なのであり、父の『身体操作術』なのだと思います。
ベルサイユの豚

↑本文と全然関係ないんですけど、この看板面白くないですか?