漫画の映画化ラッシュ

1.
『デスノート』をつい最近ようやく全巻読みましたが、信じられないぐらい面白かったです。こんなのを週刊でやってたなんて、本当に信じられないですよ。
『デスノート』も『リング』もそうなんだけど、あり得ない設定を『ある』と言い切って、それをガチガチの論理に組み込んでいく感じがたまらなく面白いです。
2.
それにしても、デスノートの映画版って、けっこう不評ですよね。見てみたいんだけど、どうなんだろ。。。
今後、どんどん外国で日本の漫画の映画化が増えてくると思うので、漫画がこんなに頑張っているのだから、日本の映画界ももっと頑張ってほしいですね。


死は無

人間って、死んだら本当に無になるんだろうなって思うようになってきた。
人間の体を構成する要素は、タンパク質だのなんだのといろいろあるらしいんだけど、どれも新陳代謝みたいな働きによって、全部入れ替わってしまうんだって。一年もたてば、殆ど完全な別人になっているらしい。そして、養老孟司曰く、人間の体はこういう『システム』であり、自然と一緒。体は自然そのものなのだそうだ。
精神は日々変わりゆく肉体を、同じ人間だとしてつなぎ止める役割も持っていて、だからこそアイデンティティが保たれる。
精神自体は、脳の働きから生み出されているのは間違いないらしいんだけど、どのように生み出されるのかは全くの謎。神経細胞を流れる電気信号の状態でどんどん生み出されるんじゃないかって思われる。
ところが、電気が流れる・流れない、という差異しか起きない神経細胞は、コンピューターでいう0と1と同じようなデジタル的な振る舞いをするにもかかわらず、なぜか生み出される精神は曖昧で、コンピューターのパキパキとしたデジタルな世界とはかけ離れている。茂木健一郎は奇跡的な現象だと言っていた。この仕組みは、いずれは解明されてくることだろう。
でも、僕としては、昔は、脳はなんか霊の乗り物のようなもので、俺のコアになるような小人が、ウィーン、ガシャンとハンドルを操作しているようなもんなんじゃないのかと思っていたわけで(小人の脳を操作しているのは更に小さい小人)、そんな事実を本で読むたんびにガッカリしてくるわけです。
先日船橋でサークルの先輩と同輩で飲み会をした。ユウジと俺はお酒自体は若干セーブ気味だったが、顔を真っ赤にして嵐と化した某先輩が僕らを巻き込み、ウギャーとかいいながらあえなく撃沈。
目が覚めたら、ズンの家。それまでは何の夢も見ない全くの闇だった。いや、闇だったという自覚すらなかった。
アルコール漬けの脳は、なんにも感じないし、なんにも見えない。ましてや何も感じていないという自覚すらない。
これって無なんだろう。死後の世界ってどうなんだ?とかいうけど、このような状態なのかもしれない。
あるいはノンレム睡眠の時。あれも完全に無だ。
死というのはシステムの停止。システムが停止すると精神も停止。自覚のない無の世界。そういう事だと思います。
小人が脳から脱出する事は無いのだ。
(でも、痛いのや苦しいのは嫌だから死にたくないです)


自由になるために読書する→ループへ

僕は、自由になるために読書をしようとしているんだ。
でも、『?のために』読書をする、ということと、読書が好きだ、という事は違う。
僕の読書には目的と好奇心が同居している。でも、その習慣はいつまで続くかわからない。
なぜなら、目的の方にウェートを置きすぎている気がするからだ。
(1)『興味ってなに?』
ある程度成長したあとで興味を持つ事柄の裏には、純粋に『面白いじゃん』という感想と同時に、『これを身につけていれば後々役に立つかも』っていう利益重視の感情が同居していることが多い気がする。普通は『楽しさ』>『有益さ』だろう。
しかし、僕の場合はしばしばそれが逆転する。
例えば英語。英語の勉強自体が楽しいというよりも、『1年後に喋れたらいいなあ』という感覚のほうが強い。
例えば読書。『たくさん本を読んでおけば、どこかの場でその話題が出た時についていけるし、今よりもちょっと賢くなれるだろうな』
例えば中学のハンド部。『ハンドボール自体よりも、この貧弱な体を何とかしたい』
もちろん、この考え方自体悪い事じゃないと思う。未来を志向して生きるのは良い事だ。でも、僕の場合はあまりにそのことに縛られすぎだ。
後で役に立つから頑張るのか?それだけじゃないでしょ。もっと自由に、楽しい事をできないの?
それとも、楽しい事を純粋に楽しめないぐらいに、僕は何かに縛られすぎているのかな?
(2)恐竜
最近Penという雑誌で『恐竜』が特集されていたので大慌てで買った。僕は幼い頃
から中学生あたりまでものすごく恐竜オタクで、絵も描きまくった。恐竜が大好きだったおかげで絵が好きになり、今のデザインの学校に通うきっかけにもなった。
特集されていた内容は、最新恐竜理論の表面を軽く撫でたような軽いものだが、10年以上も前から情報の更新が滞っていたため、軽く未来にタイムスリップしたような気分になった。懐かしさと同時に、当時の熱い情熱がこみ上げてきた。
なぜ、恐竜に興味を失ったのか。それは中学時代に進路を考えるようになったためだ。
まず、恐竜で食っていくのは難しい。恐竜学者になるには、それなりに研究している大学に行き、発掘作業をして論文を書かなければいけない。
中学受験に失敗し、落胆していた僕には、それは遠い夢のように思われた。第一、僕の住んでいた沖縄では恐竜どころか、同じ時代に住んでいたアンモナイトの化石もあんまりでない(一応出る事は出るが)。
恐竜研究のメッカと言えばアメリカで、俺は果たしてそこに一人でいくのか?沖縄を離れ、アメリカで化石を掘って一生を終えれば楽しいのだろうか?そんな途方もない事は、僕には想像もできなかった。
そして、なにより、どんなに化石を研究したって、本物の恐竜を見る事など一生出来ないのだ。
(3)数学は役に立たない
最近読んだ『世にも美しい数学入門』(ちくまプリマー新書:藤原正彦/小川洋子)っていう本の中に、『数学は役に立たない。だから面白い。』っていうフレーズがあった。
現在の科学を支えているのは数学で、たしかに必要ではあるんだけど、でも、少なくとも現在やっている数学はあとさき数百年?数千年でもしないと実用的にならない、つまり、殆ど役に立たないのだそうだ。
恐竜の研究は、役に立たない研究の最たるもののような気がする。たしかに、「今後起きうる未来の環境変化を予測する上での足がかりになる」、とか、「今の生態系を理解する手がかりとなる...」とか、言い出せばいろいろ役立つ要素が出てくるかも知れない。でも、研究している当の科学者は、そんな事微塵も感じていないに違いない。あるのは太古の怪物への純粋な好奇心だけだ。
(4)知恵を身につけ自由になる
数学者や恐竜学者のような生き方と、僕のように『こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない』という生き方は正反対だと思う。前者は自由な生き方で、後者は常識に縛られたガチガチの固い生き方だと思う。もちろん前者も食うためには多少現実の枷に縛られなければいけないと思うが、生きる哲学の根本が全然違う。
僕には、例えば『何歳までに何しなきゃいけない』というような常識が激しくこびりついていて、生き方から自由を奪っている。僕の生きる哲学の柱に深く食い込んでいる。
でも、僕には、そういう常識を全く無視して生きていく生き方はもう無理だと思う。ある日、急にそれを悟ってしまった。強引に柱から引き抜くのは、柱の崩壊を意味するのだ。
だから、僕が自由に生きるには、自分の枷となっている常識と上手につき合っていくしか無いんだと思う。
いったん常識がこびりつき、食い込んでくると、なかなか自由に飛び立って生きていけない。常識と上手につき合っていくには、そのための別の知恵が必要だ。僕がこの状況の中で、より自由に生きていくためには、常識を自分の中で巧みに有用な物として、あるいは排除出来る物として処理出来るように、たくさん知恵を身につけなければいけない。
だから、自由になるために、たくさん読書をしようとしているんだ。
(こうして(1)にもどり、ループは続く)